藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

近代・グローバリズム 根は同じー内発性と外発性ー



       


近代・グローバリズム 根は同じー内発性と外発性ー
 近代の特徴は、「西洋の衝撃」によってアジアやアフリカの諸民族がそれを押し付けられたことである。グローバリズムも1989年の米ソ冷戦終結、1991年のソ連崩壊によって、アメリカの一人勝ちとなり、民族紛争がよみがえって浮上した中で、アメリカの拝金主義が世界を覆うようになった結果であり、ある意味、アメリカ拝金主義、アメリカニズムの世界への強要であった。悪の枢軸国のレッテル貼り、イラク侵攻、IS誕生、アフガン侵攻、武器商人と軍人エリート、鷹派パパブッシュが繋がってテロの脅威を産み出したと言っても過言ではない。反省の色がない大国。金、金、金!金の亡者が拝金ダンスを踊り、屍を累々と築くも、反省の色なし。自由の名のもとに、非正規雇用が四十%の日本もアメリカの走狗と化してはや七十五年。花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに。
 閑話休題、夏目漱石は本当は漢学の教師になりたかったが、時代の進展を見て、好きでもない英文学を研究し、英語教師となったが、ロンドンでの二年間の留学生活は不愉快極まりないもので、欧米の価値観をとめどなく押し付けられると感じたことにより強迫神経症となった。漱石は当時の日本人の平均身長が162センチぐらいであった中で、身長は148センチぐらいしかなく、ロンドンで、非常な引け目を感じ、ショーウィンドウに映った、みすぼらしい小人の濡れどぶネズミのような自分を卑下し、下宿の双子の老婆にさんざんいじめられ、漱石発狂せりとのうわさが日本人留学生の間で流れた。
 漱石は、帰国後、「自己本位」の哲学を説くようになり、内発的な自らの内なる声に忠実であろうとした。西洋の「趣味」(この場合、価値観、テイスト taste と言った方が正確であろう)に合わせるか、それとも自己の「趣味」に忠実に生きるか、漱石は悩んだ。かなり生真面目な人である。英語教師から朝日新聞社社員となった漱石は、心の安定を好きな漢詩を書くことによって得ながら、小説を書き、最後の未完成の『明暗』では、個人のエゴの心の前では、知識人の教養などは何の役にも立たないことを表現し、日本的近代の姿を小説に描こうとした。
 村上春樹の小説は、個人のアフェアーズを恋愛を中心に描写するが、自然主義に近いテイストで、その小説では、すでに漢語は無視されており、特有の英語を翻訳したような文体は、村上春樹固有のものとして確立されているが、「社会」や「天下」を中心に扱わない姿勢は、過去の日本人の伝統、好みとは微妙に合致せず、一部熱狂的読者に支持されるも、「人類益」や「人道」といった価値観とは本質的に無縁であることから、ノーベル文学賞をとることはかなわない夢のようである。ノーベル文学賞をとるには、『雪国』のような日本固有の繊細美を表現するか、『ヒロシマノート』のような人道主義がなければ無理であろう。ノーベル賞自体、極めて政治的な賞であることを知る日本人はどれだけいるだろうか。ノーベル爆弾発明家の罪意識とノルウェーの国家戦略がうんだノーベルプライズ。日本文学は政治を描くことを野暮と考えるが、最近は、時代背景としての「政治」を描かないと、リアリティーがないとして、これもまた認めようとしないようである。
 村上春樹の作品が世界中で翻訳されるのは、その人気もさることながら、翻訳しやすさが大きく関係している。『ノルウェイの森』の中国語訳を調べ、他の日本文学作品の中国語訳と比較した結果、『ノルウェイの森』の中国語訳の方が、受身表現がそのまま直訳される率が高かった。つまり、村上春樹の『ノルウェイの森』は中国語に直訳しやすいのである。他の言語への翻訳も大同小異であろう。日本的婉曲表現や余韻の文化は捨象されているのではないか。漢語の教養を捨てたところに成立した文学である。


                           2022.1.21   金

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