藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

明治のキリスト教  内村鑑三

       

     明治のキリスト教  内村鑑三
 以前、日本の中国論・日本論を個別に分析的にではなく、総合的に、私の言葉で言うと、比較文化学的に調べているときに、明治のキリスト教に行き当たった。
 明治のキリスト教関係では、文学では北村透谷、キリスト教自体では、熊本、横浜、札幌に中心地としてのバンド(絆)があった。熊本では徳富蘇峰も形としてキリスト教と関係を持ち、蘇峰は新島襄を頼って、一時、京都の同志社大学に来ている。
 札幌のバンドは札幌農学校(当時、官立の学校は東京帝大と二つだけだったので、位は東京帝大並み。)との関係があり、官費で費用無料のため、内村鑑三が農学校に入学し、上級生からキリスト教入信を迫られ、入信し、アメリカからの経済的援助に頼らない独立キリスト教を目指したという経緯がある。
 内村鑑三という人は上州、群馬の儒者の家に生まれ、『孟子』の「義」に強く共感した人である。キリスト教の理解も、武士道キリスト教といったもので、武士道と同じ精神をプロテスタントキリスト教に見出し、入信したという人である。内村鑑三の無教会派というのは、「教会のない者のための派」であると、内村鑑三が自ら述べている。そこには、信仰と教団の関係についての内村の批判的視点が顕在化している。
 すべての宗教は、個人の信仰を教団の指導者の教説に従属させようとする。内村はそれに異議を申し出たものと考えられる。
 わたしはキリスト教徒ではないが、内村鑑三という人は立派な日本人だと思う。日本人の絶対他力宗的ムードを知悉し、キリスト教も絶対他力宗と位置付けながら、個のあり方を希求したからである。結果、内村自身がカリスマとなり、小集団の内村キリスト教を形成し、死んだあとは解散するようにと遺言した。カリスマ性に基づく小集団の宗教は日本の俳句小集団を想起させる。構造主義的な比較文化学的考察としてはそうなる。


                            2023.2.7    火曜日

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