徳川慶喜 ② 2024.6.22 土

徳川慶喜
徳川慶喜 ②
慶喜は自分の母親が皇族であること、つまり天皇の親戚だということで、自分が他の兄弟より高い地位にいるという意識を持った。そのため、天皇を奉ることは自分自身を高めることになるという、貴種にありがちな意識を持っていた。そのため、慶喜は筋目や家柄、忠義、孝行と言った儒教における徳目に滑稽なまでにこだわる傾向があった。
同様に、天皇には従順にし、天皇の語ったことには型通りに実行するという「形式主義者」としての一面があった。そして形式主義と尊王が最も幸せな人生の目標になっていった。
鳥羽・伏見の戦いで孝明天皇にたまわった衣服をもって、突如として江戸に逃げ帰ってしまう行動は、形式主義と尊王思想が結びついた慶喜の本質を念頭に置かないと理解できない。(pp.26-27)
磯田道史、NHK「英雄たちの選択」制作班(2018)『NHK英雄たちの選択 江戸無血開城の深層』NHK出版
ノート
鳥羽・伏見の戦いでは岩倉具視の作らせた「錦の御旗」が絶大なる効果を発揮した。
賊軍となることを恐れた幕府軍は総崩れ、慶喜は天皇に逆らうことになるのを恐れて江戸に逃げ帰った。そのおかげて、京都、大阪が火の海になることを免れたのだから、慶喜の遁走も今からみれば意味があったとも言える。慶喜もそののち、上野の寛永寺で謹慎したから、大正時代まで生きることができた。それでも、新政府に対して戦った東北諸藩は「忠」という点では「武士の鑑」である。東北は新幹線がかなり遅れて開通したことからもわかるように政府に逆らった連中という烙印を押され続けたのではないか。冷や飯を食わされ続けたのである。原発だって、東北に作られ、恭順の意を示せと言われたような感じがある。(あくまで私の主観だが。)歴史の中の文化(=傾向)はかくも根強く我々の中に残っていることに気付くべきである。比較文化学はそうした文化を明らかにする学である。
現在、我々の考えていることの半分は、前代の文化の考えていたことなのである。
2024.6.22 土