日本美術の流れ⑯ 新明治様式のロマンチシズム① 2024.11.14 木

鏑木清方 一葉女史の墓
日本美術の流れ⑯ 新明治様式のロマンチシズム①
東京美術学校は1893年(明治26)第一回卒業生を出した。横山大観はその一人だが、彼は卒業制作で孔子、老子、釈迦といった中国的、観念的なものを描いている。しかし、その表現には抒情的な雰囲気が出ていて、そこには日本の民族性と時代のロマンチシズムが不可避的に作用している。
そのころから、ロマンチシズム、情趣主義を内容とする新しい日本の開化様式が開花し始めてくる。当時、歴史画が非常に流行り、それは主として大和絵であった。日清戦争前後からノスタルジア、過ぎしものへの慕情のようなロマンチシズムが徐々に発展してきて1902年(明治35)には鏑木清方が「一葉女史の墓」という絵を描いているが、これは一葉の墓にもたれて、銀杏返しに髪を結った一人の娘が物思いにふけっている情景である。徳富蘆花の『不如帰』が出たのは1899年(明治32)であり、当時はそういうロマンチックな風潮の時代だった。
1898年(明治31)岡倉天心は東京美術学校を罷免され、1906年(明治39)には水戸の五浦 いずら に日本美術学校を移したが、二、三年で事実上、解散となる。しかし、この美術院の努力が日本画壇の指導的作風を生み出したのである。
源豊宗(昭和52) pp.301-304
ノート
横山大観は、岡倉天心を心から尊敬し、天心の話をするときは、居住まいを正して「先生は」と話したそうである。
岡倉天心は女性にだらしなく、10台に遠縁の娘に手を出し、その娘を弟子の早崎梗吉に嫁がせている。九鬼男爵の妻とも恋愛関係になり、それがもとで東京美術学校を追われた。とはいえ、天心は「風を描く方法はないものか」と言い、当時、朦朧体と揶揄された、線ではなく面で風を描く手法を提案し、日本美術の伝統を発掘した功績は多大なるものがある。横山大観の絵にそれは結実している。
2024.11.14 木曜日