頼山陽と大塩平八郎 2025.2.6木

山紫水明処
頼山陽と大塩平八郎
頼山陽は大坂の大塩平八郎をたびたび訪い、大塩から王陽明全集を借りたりして濃密な交流をしたが、大塩が山陽を訪ねたのは、たった一度きりで、それは山陽が病が重篤になり、それを見舞いに行った時であった。しかし、すでに時遅く山陽は亡くなっていた。「大哭して帰る」と大塩の(1833)『洗心洞箚記』にある。
客観的な道徳によって歴史を再構築する山陽と自分の心に内在する良知と宇宙に美満する良知が完全に一致するとの信念のもと、歴史を破壊する大塩。この二人の精神は倒幕・尊王攘夷運動において朱子学の正理(客観理)と陽明学的な精神性(主体理)の劇的な合体として、アナーキーに過剰に爆発し炸裂していくのである。
小倉紀蔵(2019)『京都思想逍遥』ちくま新書 pp.158-159
ノート
頼山陽と大塩平八郎が昵懇の中だったとは! 小倉紀蔵という人は京大の韓国儒教哲学の専門家だが、京大の授業で学生20人ぐらいを引き連れて、京都の名所を見て回り、こういう本を書いた。頼山陽は皇国史観で日本歴史を書いた人で、鴨川の丸太町橋のねきに住んで、その居所を「山紫水明処」と名付けた。比叡山の山は紫色、鴨川の水は透明で清らかな所という意味であろう。そこから祇園へは駕籠を飛ばして15分ぐらい。山陽は灘の酒、剣菱を愛した。キリリと辛口の酒である。
頼山陽と大塩平八郎が交友関係にあったというのは、江戸時代の知識人のオープンな関係性がうかがわれて面白い。比較文化学的な研究をしていた二人。一つ専門に閉じこもって狭いことを研究するだけとはわけが違う。知識の幅が違う。
2025.2.6 木曜日