大日本帝国憲法の起草者たち 2025.3.13木

大日本帝国憲法の起草者たち
大日本帝国憲法の起草者たち
1882年(明治15)7月、欧州にいても憲法調査の仕事が捗らない伊藤博文は、ウィーン大学のシュタインを訪ね、ドイツ民族の固有の法であるドイツ法の研究に重きを置く、歴史法学の中の一方の極であるゲルマニステン(ゲルマン法学派)であるシュタインに学び、自国日本の歴史の重要性に目覚めたが、同時に、日本国内の井上毅も『古事記』『日本書紀』などの国典研究の中で「シラス」という日本独自の、支配者が国民の心を汲み取り国民の利益を図るべくして行う統治理念を発見し、日本の歴史に根ざした憲法を構想した。
金子堅太郎も自国の法令や慣習の研究を重視し、日本法律学校(現日本大学法学部)を創設した。金子は日本の「古法」「祖先より継承せし遺法」を研究し、その上に欧米の法制度や法理論を取り入れることが必要だと考えた。
以上の伊藤博文、井上毅、金子堅太郎は明治憲法の起草者として忘れることはできない。
八木秀次「明治憲法とグリム童話」西尾幹二(2005)『新地球日本史』産経新聞社 pp.42-58
ノート
ちなみに『もう一度読む山川日本史』には、こうした経緯は書かれていない。こうした経緯とは、日本古来の歴史や遺法を基礎として欧米の法制度や法理論を取り入れて明治憲法を作ったということである。
大日本帝国憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」という大日本帝国の天皇についての記述がいいとは言えないが、過去の日本の伝統を基礎として欧米の法を援用しようとしたことは知っておく必要がある。異文化を受け入れる場合の日本の受け入れ方の基本が守られているからである。一般には、西洋のキリスト教に匹敵するものとして、精神的支柱として天皇を持ってきたとされているが、日本の歴史の中から日本本来のものを持ってきたという視点のほうが深い認識である。
日本的なものを中心として残しながら外国のものを取り入れるというのが本来の日本のやり方ではないか。今はどうだろうか。戦後、それすらなくなったか?和漢の境をまぎらわすという考えはすでに村田珠光からあるが。
2025.3.13 木曜日