藤田昌志 比較文化学のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

山崎闇斎の垂加神道 ①  2025.6.16月

比較文化学的

    山崎闇斎の垂加神道 ①

 室町時代に吉田兼倶が集大成した吉田神道は、仏教も道教も儒教も全部採り入れ、仏教を「果実」、儒教を「枝葉」、神道を「根」と位置付けた。それ以上に儒教的な考え方を強調したのが吉川惟足 これたり で、彼は商人出身で吉田神道の口伝を受けて新しく吉川神道を築いた。吉川神道は巧みに朱子学をつかって神儒一致を説いただけでなく、皇室中心主義の立場をとった。尊王思想にも大きな影響を与えた。山崎闇斎は自分はこの吉川神道を垂加(神の降臨と加護)され、奥義を授けられたというふうに自覚して「垂加神道」と名乗った。

            田中優子 松岡正剛 (2017)『日本問答』岩波新書 p.170

           ノート

 吉川神道を垂加されたので垂加神道と山崎闇斎は名乗った。山崎闇斎は朱子学者で、柿色の、朱色の服を着て、朱子学を信奉していることを示していた。寺町通りの下御霊神社に「敬」と掘った石があり、「つつしむ」と訓読みし、闇斎が神の前で「つつしむ」ことを重要視していたことを表している。

 上の写真は下立売、堀川通りを一筋、西に入ったところにある葭屋町通りを少し北へ上がった東側にある山崎闇斎邸跡である。堀川通を挟んで東側にある伊藤仁斎邸跡と比べて、非常に質素な山崎闇斎邸跡である。伊藤仁斎は門弟三千人と言われ、身分にかかわらず、多くの人が訪れて講義を聞いたというから、京都にはそうした学問を愛好する気風がかつてあったのだろう。それが現在の「学生の街、京都」の背景となっている。

                       2025.6.16   月曜日

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