ペリー来航時の状況 2026.5.26 火

ペリー
ペリー来航時の状況
マシュー・ペリー(1794-1858)は、日本に通商をさせるには江戸の喉首に行って脅すしかないと考えた。ペリーはすでに60歳に近い提督で、二度目の来航から6年後に咸臨丸で勝海舟や福沢諭吉が渡米した時にはすでに亡くなっていた。
ペリーの艦隊は太平洋を渡ってきたのではない。米国東海岸から出港して、喜望峰を回ってきたのである。「黒船」は蒸気船二隻、後二隻は帆船で、蒸気船は当時の西洋でも最新の船だった。
江戸の喉元に西洋の艦隊が来ると危険であることは、林子平の『海国兵談』にも書いてあり、知識人には知られていた。
幕閣はペリーと交渉して、来年もう一度来てほしいと伝え、時間稼ぎをした。ペリーは琉球に寄港し、八か月後に戻ってくる。
pp.49-50 小谷野敦(2018)『司馬遼太郎で読み解く幕末・維新』KKベストセラーズ
ノート
ペリーがやってきたのは植民地開拓競争でアメリカが西洋諸国に後れを取ったのを挽回するためで、捕鯨船の物資や水の補給地として日本に開国を求めたのは、二次的な理由のようである。勿論、アメリカも他の西洋諸国について日本に助言をしてくれた面もあるし、互いに若い国としての親近感はあったであろう。
しかし、やがて日本が日清、日露戦争で勝利すると、カリフォルニア州外国人土地法 (1913年・1920年)=「 日本人移民の農業進出を制限し、経済的自立を妨げる実質的な「排日土地法」」を制定して、アメリカは日本に対して警戒意識を露骨に表し始めるのである。
2026.5.26 火曜日