蘇我氏と天皇家 ③ 2026.11.5 木

蘇我氏と天皇家 ③
この時代の天皇家の人びとは親蘇我派と反蘇我派に二分されていて、親蘇我派が優勢でしたから、舒明天皇も蘇我氏とうまくやっていこうとする立場に立っていました。
舒明天皇は初めて遣唐使を派遣したという功績もありますが、内政面では何もしませんでした。
舒明天皇がなくなると、皇位継承問題が起こり、古人大兄皇子、中大兄皇子、大海人皇子
の三人の皇子の争いを避けるためにひとまず「つなぎ」として舒明の皇后が第35代皇極天皇として即位します。蘇我氏の方は馬子がなくなり、蝦夷がその後を継ぎ、更に蝦夷の息子の入鹿の時代になっていました。
pp.166-168
井沢元彦(2021)
ノート
皇極天皇は「乙巳の変」のときも、見て見ぬふりをしたし、気の強い中大兄皇子の言いなりになっていたようだ。中大兄皇子は百済系と仲が良く、白村江の戦も百済支援から行われたというのが現在の通説である。白村江の戦で負けた中大兄皇子は即位して天智天皇となるが、新羅や唐に攻め込まれるのではないかと危機意識を高め、近江京に遷都し、大陸の進んだ文化、制度を取り入れ、庚午年籍(670年(天智天皇9年=庚午の年)という初めての戸籍を作成した。高句麗か滅亡し、新羅と唐が戦い、統一新羅ができたので、日本が攻め込まれることはなく、日本はほっとした。
天智天皇は冠位二十六階の制定や、日本初の体系的法令とされる「近江令」の編纂を進め以下のことを行いました。
天智天皇 AIによる概要
国防・インフラの強化
663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、外国からの侵攻に備えて西日本各地に水城や山城(朝鮮式山城)を築き、防衛体制を固めました。
近江大津宮への遷都や、日本初の漏刻(水時計)による時報制度の開始など、国家インフラや文化・産業の刷新も行いました。
天皇中心の秩序づくり
蘇我氏を排除した大化の改新を主導し、中国(唐)の冊封体制に対抗する形で「天皇」号や独自の元号を使用する独立国家としての体制を示しました。
2026.11.5 木曜日