藤田昌志 比較文化学のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

キリスト教

比較文化学的


     キリスト教
   キリスト教は 1549 年に日本に伝来し、カトリック教会のイエズス会士であるフランシスコ・ザビエルが布教を始めた。16 世紀末に豊臣秀吉がその平等思想が封建制度の確立に妨げになるとして厳しく弾圧した。江戸時代にも禁教であった。現在は憲法で宗教の自由が認められているのでもちろんそういうことはない。


  ノート
 江戸時代に禁教であったキリスト教は、明治時代になって一定の信教の自由が保障されて、熊本、横浜、札幌の三つのバンド(バンデッジ 絆)の下に布教を始めた。徳富蘇峰や内村鑑三もそれに加わった。内村鑑三によると、武士道精神と同じ精神をキリスト教に見出したために入信したということである。もっとも、内村鑑三の場合は、武士道精神も堅持し、「キリスト教はいいが、アメリカのキリスト教はだめだ」と『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』と述べて、形骸化し、拝金主義化したアメリカのキリスト教を批判している。
 多くのキリスト教入信者は、そのハイカラな現代性と精神のよりどころを求めて、新しい時代に新しい欧米移入のキリスト教に入信した。もっとも、一般の日本人は冷ややかで、「アーメン、ソーメン、冷ソーメン」などと言って、揶揄した。
 内村鑑三は、1991年、教育勅語不敬事件で第一高等中学校を追われている。権力はキリスト教のことをよく思ってはいなかったのである。
 『甘えの構造』で有名な土居健郎氏は、日本のキリスト教信者はすぐに牧師に甘えてくると、キリスト教の日本的移入の問題を指摘している。このことは、遠藤周作氏もさらに問題にしており、キリスト教は、日本に来ると浄土宗化したという意味のこと述べている。日本の「仏」は踏み絵を踏めと言うと言い、それはキリスト教の「神」の日本化であるというようなことを『沈黙』で述べていた。厳しい「神」とすべてを許す「仏」。「神」と「仏」については、さらに詳しく述べる必要がある。



                            2022.7.14     木

×

非ログインユーザーとして返信する