藤田昌志 比較文化学のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

神はいずこにいるか?(1) 2024.12.30月

比較文化学的

      

           神はいずこにいるか?(1)
 遠藤周作(1966)『沈黙』のほぼ30年近く経ってから『深い河』が書かれている。
 ポルトガルの司祭ロドリゴは、苛酷な拷問に遭っている信者もロドリゴが踏み板を踏めば助かると棄教司祭フェレイラに言われる。そのときキリストの声が聞こえる。


  踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、こ 

  の世に生まれ、お前たちの痛みを分かつため十 

  字架を背負ったのだ。


 キリストはついに沈黙を破ったのである。そのキリストには慈愛のまなざしを注ぐ母のような許しの神の影が宿っている。
 山折哲雄(2001)「日本人のキリスト教」『近代日本人の美意識』岩波書店所収 pp.222-224
          ノート
 このキリストは日本化した、浄土教的な、母なる許しを持つ神である。遠藤周作は宗教は山登りみたいに、いろいろなルートがあるが、山頂は一つだという考えに最後は落ち着いたようだが、『沈黙』ではまだそういう考えに達していたわけではない。だからこそ、このキリストの言葉にはぎりぎりの臨場感がある。
 私はキリスト教徒ではないが、宗教について深く考えさせられる。人の苦しみを心底、自分の苦しみとする人が時々、出てきて、人々を感化して不幸の淵から救い出し、幸福にしていくのが本来の宗教の姿なのだろう。大きな苦しみのない者には大悟はないのかもしれない。

  社会との関係で言えば、この小説は60年安保後、挫折し転向した元左翼青年たちがこぞって読んだことにより当時のベストセラーになったとのことである。今、80歳を越える当時の青年たちは、どう思っているだろうか?
                          2024.12.30    月曜日

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