藤田昌志 比較文化学のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

遠藤周作    2025.1.16木

比較文化学的

               遠藤周作
   遠藤周作
 遠藤周作は1966年、『沈黙』で日本の浄土教化したキリスト教=弱者を許す神を描き、1994年『深い河』でヒックの『宗教多元主義』を下敷きに、キリスト教、ヒンズー教など世界の各宗教が同じ神を違った道、文化、象徴で求めていることを、キリストと同じように他者のために身を挺して虫けらのように死んでいく、落ちこぼれの大津の姿を通して描いた。
    ノート
 各宗教は同じ「神」を違った形で求めているというが、キリスト教的な人格神的な「神」とは限らず、仏教では因果応報という法であろう。無神経な言いようである。
 司馬遷も『史記』で、「天道、是か非か」と訴えているが、中国では「天」は為政者を通して、為政者の政治の善し悪しを通して、善と悪の結果をこの世に体現する。為政者の行いが悪ければ悪い結果となるから、あまりに悪い結果が続くならば為政者を換えればいいということになる。易姓革命である。天人相関説である。
 「神」も中国では自然の不可思議な力を意味し、孔子は「怪神乱力は語らず」と言い、不可思議なものは遠ざけた。
 「いわしの頭も信心」ではないだろう。何を信じるかも重要だ。国家権力、支配者が決定するのだが「淫祠邪教」という言葉もある。すべての宗教が同じものを求めているわけではない。日本の宗教は、大体、現世利益だ。それも一概に否定できない。小我を捨てる契機にもなり得るからだ。願いが叶えば、その信じている存在に対して感謝を続けるだろう。小我を一時的にせよ捨てるきっかけとなる場合もあるということだ。


  宗教は弱者の見方である。もっとも、いろいろな宗教があるから、合理性があるかどうかも考えてみるべきだ。また、どんな指導者かによっても、その宗教の姿は変わってくる。ほとんどの宗教は個人崇拝である。そうでないと教団が分裂する。教団が内省力がないと、傲慢になり、一般人は足を遠ざけるようになる。


                           2025.1.16   木曜日

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