大隈重信 (1838年 3月11日〈和暦:天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)

大隈重信 (1838年 3月11日(和暦:天保9年2月16日)- 1922年(大正11年)1月10日)
阿部眞之助(2015)pp.133-161
内容要約
大隈の屋敷には食客が絶えず、少なくとも二三十、多ければ四五十人がゴロゴロしていた。その中には五代友厚もいた(p.134)。
大隈は綾子夫人という賢妻を得て、これが生涯の助力者となった(p.135)。大隈は元来、気性の烈しい、むしろ人には敬遠され、孤独に居るべきもののようだった(p.137)が、邸宅を天下の豪傑に開放し、交わりを結ぼうとするようになったのは、政治的理由、つまり薩長土肥の「肥」は10分の1にも当たらず、天下を後ろ盾として、天下に士を求めるほかに手段がなかったからであろう(pp.138-139)。
長崎に派遣された大隈は、英学を学びながら、自ら英学塾を開いて先生となり、今日、仕入れた品物を明日売るという方式であった。この方式は晩年まで続き、早稲田邸における彼の生活は、毎日の午前中を訪客に開放し客と談じ、客から新知識を仕入れることだった。客の数は常に数十人を下らなかった(pp.149-150)。
大隈は自分が神道の「教祖」になり天皇の威光で国民に信仰を押しつけようとしたが、漢学者・洋学者の中村敬宇(キリスト教徒)の、宗教は人間の作るべきものではないというところに従い、宗教を自然に任せることにした(p.155)。
十四年政変は薩長閥族により企てられた陰謀であって、その手段は比類のない陰険邪悪なものであった(p.156)。大隈が組閣第一に着手したことは、軍部との調和を計ったこと、二十一カ条の条約をシナに押しつけたことだった。これでこの内閣の任務は終わった(p.159)。
大隈は非常な恐妻家であった(p.160)。
ノート
1915年の対華二十一カ条要求は、財政、軍事の日本人顧問を中華民国に置くように言う、日本の中華民国併呑の意思の表れであったと言わざるを得ない。1910年の日韓併合からの流れであろう。帝国主義の時代だから仕方ないだろうと言う評論家もいるが、そうしたものの言い様自体が不謹慎であることに気付くべきだ。アメリカが原爆を日本に落としたのは、戦争を早く終わらせるためであったと言われて、納得のいく日本人はいるであろうか。
それはさておき、高校歴史で勉強した歴史上の人物について、どのような評価があったのか、どういう人物であったのかを知ることは必要なことである。その際、大事なことは、誰がどの本でどのような評価をしているか、どの本の何ページに書いてあるかを客観的に記すこと、自覚することである。そうしないと、ムーディな日本人はどちらか一方に偏して、極端な善玉悪玉二元論に陥ってしまう。今のウクライナとロシアの戦争も共時的、歴史的の両方から考える必要がある。それに大事なのは、いかにして戦争を早く終わらせるかである。窮鼠猫を噛む。おそロシアを軽く見てはいけない。もちろん、侵略、戦争を仕掛けるのはよくない。絶対に許してはならないことだ。大統領制というのもどうかと思う。大統領と大統領が戦っている感が強い。もっともウクライナは国民も支持する人が多いが。しかし、それは知人や肉親を殺され、怒りが増幅されているからだ。だれだって、一般人は戦争などしたくない。
2022.4.29 金