藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

伊藤博文 (1878-1909)

         

伊藤博文 (1878-1909) 阿部眞之助(2015)pp.101-129
     伊藤博文は、木戸ほどではないが、相当の大頭であった。写真でもそのことは窺える。出身は、下級武士にすら属しておらず、長州の農村の百姓の子としてこの世に生を受けた(pp.102-103)。
 明治の末期、伊藤博文と大隈重信は一は材朝の、一は在野の、対立した大立者だった。民衆の同情は、判官ひいきの譬えにあるように、いつも不遇者の在野の側にあった。大隈は当時、民衆の偶像だったと言える(pp.103-104)。
 それに対して、伊藤は民衆とはかかわりのない貴人で、天皇の寵遇を受けること、在廷の第一人者であった(p.104)。至誠、狡智、至情、冷酷が彼の心に雑居し、しかも調和を保っていた。これが彼が人に愛されてお人好しにならず、人に憎まれて敵にならない、処世に成功する秘訣になっていたようだ(pp.105-106)。
 伊藤は好色、建築好きで有名だった(pp.108-109)。安重根に暗殺されたとき、馬鹿な奴だと蔑むようにつぶやいて、そのまま息をひきとった(p.110)。相手方の身になって考えることをせず、自己本位の立場のみを固執しようとした結果によるのだろう(p.115)。自分の攘夷は許しても相手の攘夷は許さなかった。
 伊藤は思想というものを持ちえなかったようであり、無思想の、権謀術数の政治家として終始しなければならなかった(p.114)。
   伊藤は憲法制度の調査のため、海外派遣を命ぜられるやドイツに直行し、帰朝後、憲法の成文化に寝食を忘れて骨を折ったが、その骨折りは、天皇家の専制保存、引いては彼らの権勢持続のために払われたので、民衆の立場は爪の先ほども考えられておらず、伊藤は我々を「衆愚」と罵った(pp.126-129)。


       ノート
 伊藤博文は現実感覚のある、バランス感覚のある政治家であったというのが、日本思想史の橋川文三氏の評価であったと記憶する。日清戦争の時も、勝海舟の反対を無視して、陸奥宗光の強引な開戦への、清国の呑めるはずのない日清共同の朝鮮指導を清国に提示する案を容認している。清国は当然、受け容れられないと言い、日清開戦となる。フグを食べてもよいことにしたのでも知られる。
                              2022.4.28  木
                             

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