藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

犬養毅 1855年6月4日〈安政2年4月20日〉― 1932年〈昭和7年〉5月15日)

   

犬養毅 (1855年6月4日〈安政2年4月20日〉― 1932年〈昭和7年〉5月15日)
 阿部眞之助(2015)pp.225-253
 内容要約
 犬養はもと犬飼と言った。木堂によって犬養と改めた。漢学の素養がある彼の文字感が「飼」の字を忌ましめたのであろう(p.230)。
  凝り固まった漢学生だった犬養が洋学に転向するようになったのは、漢訳の『万国公法』のよくわからないところを英語の原文で読んでみようと思ったことが発端だった(p.234)。
 上京し、湯島の共慣義塾に入った犬養は、更に慶應義塾に入り勉強にいそしんだ。あまりに勉強しすぎて、他の寮生に憎まれ、布団蒸しのリンチにかけられて、「参ったか」と言われても「参らない。多勢に無勢だ。」と言って強情を張りとおした。彼の生涯を暗示するような話である(pp.235-237)。 
  西南戦争の従軍記者をして、軍人で身を立てるつもりになったが、谷干城に軍人になるより学問をしろと説諭され、軍人志望を断念した(pp.239-241)。
    戦争が終わって、義塾に帰ると、福沢諭吉に「命知らずの大馬鹿野郎」と目をむいて𠮟りつけられた(p.241)。
   五・一五事変では、恐れたのは殺された犬養ではなく、殺人者であった。何故といって、七人の若者が一間と離れない近距離で数十発のピストルを放ち、命中したのはたった二発であったからである(p.247)。


      ノート
 犬養 毅(いぬかい つよし)1は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂、子遠。中国進歩党代表者、立憲国民党総理、革新倶楽部代表者、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。
 暗殺「五・一五事件」を参照
 この事件の背景は、浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことにあった。その際に全権大使だったのが元総理の若槻禮次郎である。浜口内閣が崩壊すると、若槻が再び総理となり第2次若槻内閣が誕生した。そのため、本来なら若槻が暗殺対象であったが、その若槻は内閣をまとめきれず1年足らずで総理を辞任してしまい、青年将校の怒りの矛先は若槻ではなく政府そのものに向けられることになった。そもそも犬養は、軍縮条約に反対する軍部に同調して、統帥権干犯問題で浜口内閣を攻撃し、軍部に感謝されていた側の人間である。しかし、その政府の長に犬養が就任したため、政府襲撃事件を計画していた青年将校の標的になってしまった。以下の犬飼の言動は、犬養の孫である道子の随筆に従った[注釈 4]。
1932年(昭和7年)5月15日は晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいでいた。この日、夫人は外出していた。
   17時頃、護衛の巡査が走り込んできて暴漢侵入を告げ、逃げるよう促した。犬養が「逃げない、会おう」と応じたところに、海軍少尉服2人、陸軍士官候補生姿の3人からなる一団が乱入してきた。襲撃犯の一人は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引いた。
  しかし不発に終わり、その様子を見た犬養は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう」と言い一団を日本間に案内した。日本間に着くと、彼らに煙草を勧めてから、「靴でも脱げや、話を聞こう」と促した。そこへ後続の4名が日本間に乱入、「問答無用、撃て」の叫びとともに全員が発砲した。
  女中のテルらが駆けつけると、犬養は顔面に被弾して鼻から血を流しながらも意識ははっきりしており、縋りつく女中に「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と命じた。
    18時40分、医師団は「体に入った弾丸は3発、背中に4発目がこすれてできた傷がある」と発表した。見舞いに来た家人に犬養は「九つのうち三つしか当らんようじゃ兵隊の訓練はダメだ」と嘆いたという。しかしその後は次第に衰弱し、23時26分に絶命した[19]。享年78(満76歳没)。
   五・一五事件を伝える『大阪朝日新聞』
5月19日、犬養の葬儀が総理大臣官邸の大ホールでしめやかにとり行われた。たまたま来日中で官邸からほど近い帝国ホテルに滞在しており、事件当日には犬養の息子である健と会食していた喜劇王チャーリー・チャップリンから寄せられた「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」との弔電に驚く参列者も多かった。
  墓所は港区の青山霊園と岡山にある。      (ウィキペディア閲覧。) 


  五・一五事件の後、日本は全体主義的国家になっていく。日本全体が、反対意見を認めない「問答無用」の社会になっていった。
                           

        2022.4.30     土

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