藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

気 について

  気 について
 理、気については中国でいろいろな哲学がある。朱子の理気二元論。王陽明の心即理。王陽明は朱子の理を中心としたエリート主義(本を読んで勉強する読書人しか「理」を学べない。科挙を受ける読書人しか「理」について学べない。)が嫌いで、心でそうだと思うことが理につながると考えた。それで、陽明学は実践の学として、危険視された。後先(あとさき)のことを考えず、「いいと思ったことはやれ」という思想である。勢い、破滅的にもなる。
 中国の病院には、かつて気功科があって、気の力で病気を治すことを是認していた。今はどうだろうか。現実に力があれば使うというのが中国的である。力がなければ変えればいいということだから易姓革命が正当なものとなる。中国共産党も人民のためにならなければ、代えればいいということになるから、中国共産党は、常に経済発展し、人民の福利厚生に努めなければならない。それが建前だけになれば、危うくなるのは中国共産党が一番知っていることだろう。
 『孟子』に「浩然の気を養う」という言葉があり、人口に膾炙している。気を中心とする哲学は日本でオカルトブームが流行った30年ぐらい前にもてはやされて、風水が流行した。学者の中にも、それに便乗する者がいた。神秘的なものをありがたがるのは、日本人の特徴なのかもしれない。ユリ・ゲラー、どこ行った。
 日本では、世阿弥が「気」ではなく、「機」と書いているが、それは具体的な「息」のことである。中国と違って、日本では、現実的、具体的な「息」が重視され、そのことは理論的、哲学的な中国に対して、具体的、現実的な日本として、比較文化学的には、まとめることができる。理屈っぽい「唐心」からごころ を本居宣長は嫌っている。「もののあはれ」という感性を宣長は重視する。それが世界で一番だと考えたところに自文化中心主義、神の国=日本への道が生じた。
         
                         2023.2.9     木曜日

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