藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

仏教という言葉から考える     2024.4.29 月

          島地黙雷   政教分離
   仏教という言葉から考える
 中世には「仏教」というより「仏法」や「仏道」というのが普通だった。それは実践に重きを置いた語で、「仏教」は経典に書かれている文字化された真理命題に力点があった。
 明治維新後、「法」「道」の語で理解されていたものが「教」として存在するものとして理解されるように変化した。「仏法」「仏道」から「仏教」へ。
 富永仲基は『翁の文』で、行われる道こそ真の道だとし、それを「誠の道」と呼び、書物の中にシステムとして整えられているような「教」には批判的だった。
 明治時代、天皇の「祭祀」や「治教」は宗教から分離されて「皇道」として位置づけられた。
 島地黙雷は浄土真宗を代表して仏教が高次の文明を導く宗教であるとするとともに、神道・皇道に当たるものを政治のレベルのものと考え、両者の分離、相補を主張した。
 近代日本における「宗教」概念の受容 島薗進  島薗進 鶴岡賀雄(2004)『〈宗教〉再考』ぺりかん社 所収 pp.189-206


     ノート 
 明治5年に、西本願寺大谷光尊の依頼で、仏教徒として初めてヨーロッパ諸国を視察旅行した島地黙雷は、ついでにオスマン帝国やエルサレム、インドの仏跡も訪ね、旅行記『航西日策』を残した。
 帰国後、島地は政府が設けた大教院の「三条教則」を批判し、政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生と、大教院からの真宗の分離を図り、実現した。「三条教則」とは「敬神愛国、天理人道の明示、皇上奉戴と朝旨遵守」で、島地は例えば、敬神は宗教だが愛国は政治であると、ヨーロッパの政教分離の原則から批判している
 島地の具申をきっかけに、神祇省は教部省に再編成、教育機関として大教院を設置、教導職には僧侶なども任命され、神仏共同の布教体制ができあがった。これは、西洋列強の推進するキリスト教の日本人への布教活動への対抗でもあった。列強の強い反発から、信教の自由の保証を逆に求められ、明治6年にはキリスト教禁教令が廃止される。
 ところが、神仏合同の布教には多くの無理があり、反発し合う傾向もあった。また、上から押しつけられた運動であると批判され、信教自由の声が高まるようになるに伴い行き詰まる。そこで政府も神仏合同の大教院による布教を停止し、明治8年には先に真宗が離脱した大教院を解散した。明治10年には教部省も廃止になって内務省社寺局に縮小され、その代わりに「神道は宗教ではない」との見解での神道国教化が政府に採用されるようになる。
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  島地黙雷の政教分離の主張は仏教を政治から守り、神道と棲み分けするためのものであった。廃仏毀釈もそれで収まったともいえる。その代わりに「神道は宗教ではない」との見解での神道国教化が政府に採用されるようになるやがて国教化が難しいとわかると、「神道は宗教にあらず」、日本の伝統、習俗であるという考えが起こってくる。
 政治と宗教の問題は難しい。宗教が「公共の福祉」に反しない限り、国家が宗教に介入することには気を付ける必要がある。大本教弾圧事件を思い出していただきたい。

 「政教分離」にしても、当時と今で、内容、背景、使用意図が異なることに注意したい。言葉の比較文化学も必要だ。民度が低いと宗教は政治に口出すなということになる。それは日本の過去の、戦前の神道と政治の形への反省に過ぎない。しかし、宗教が政治にもの申すのは欧州のキリスト教民主党もあるし、自由ではある。国家神道は天皇崇拝を主要要素としているという意味では、GHQは神道と政治の制度面を遮断しただけで、戦後も国家神道は温存されていると言えよう。比較文化学的研究を続けたい。


                         2024.4.29     月曜日                       
          
  

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