ユングについて 2024.5.3 金
ユングについて
ユング心理学とは宗教を心理学に還元する装置の一種である(p.141)。
ユングはキリスト教徒としての自己意識を持ちつつも、もはや伝統的なキリスト教には救いを見出せず、代わって心理学的な救罪の道を模索した(p.141)。
ユング心理学の実践は多様な無意識像をイメージ化して、その意味を解釈しながら本来の自己を見出していく作業なのである(p.149)。
自分の体系に内在する一と多の対立をユングは多の契機を保持しつつも一を志向するという道で越えようとすることになる(p.155)。
ユングが宗教の根幹に据える究極のヌミノース性とは、対立物として現れる「多」が、人間の意識において「一」に統一されるときに経験される感覚であると言えよう(p.159)。
注 ヌミノース =無意識を直接体験した時に感じるとされる畏怖の感情についての言葉 Numinosum ,dei Numinositöt が度々用いられる。
ユングの宗教心理再考 高橋厚 島薗進 鶴岡賀雄(2004)『〈宗教〉再考』ぺりかん社 pp.140-164
ノート
ユングは「文学的」だとよく言われるが、自らマンダラ(。曼荼羅。調和のとれた世界像)を描いたし、人間の無意識の中にある「多」について思索し、それが「一」に統一される感覚を宗教的感覚と呼んだ。
中島岳志氏が「一にして多」「多にして一」ということを言っている。過去の当方ブログを参考にしていただきたい。
私は岡倉天心が「アジアは一つ」と言ったのは、狂信的国粋主義者が利用した意味ではなく、哲学的道教の意味だったと思っている。それは荘子の「万物斉同」に通じる思想だ。その実感を天心はインドの宗教者から得ている。それについては、まだまとまった文章にできないでいる。生命は異なっているが通じている面もあるから、他人事と放置するなということである。(ユングの言う普遍的無意識、集合的無意識である。)実践は難しいが、方向はそうである。そうなれば、世界は平和に向かう。天心はそう考えたと思う。
今、金と地位のある人間が金、地位のない人間を蔑むようになってきている。非正規雇用はその表れだ。それは弱肉強食、適者生存という明治時代の社会的ダーウィニズムの再来だ。比較文化学的に歴史に学ぶ必要がある。
2024.5.3 金曜日