藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

日本人論  欠如=中空モデル 2024.3.28

   

            日本文化の真中は空

     日本人論  欠如=中空モデル
 日本は「中心が空だ」とする日本人論では、レヴィ・ストロースのものが有名だ。皇居を「中心の空」とした。
 ユング派深層心理学者の河合隼雄も『古事記』や『日本書紀』を援用して「力もはたらきも持たない中心が、相対立する力を適当に均衡せしめているモデル」であると、日本の中心は欠如=中空モデルを提唱している。
 丸山眞男も日本の思想史の特徴として「自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸」が欠如していることだと述べ、更に丸山の場合、「無構造の「伝統」」と呼べるような強固な伝統が日本の古代から現代にいたる歴史を通して存在し続けたと理解されている。(pp.316-318)            島薗進(2021)『戦後日本と国家神道』岩波書店


     ノート
 日本論、日本人論というのはトンデモ論が多いという人もいる。小谷野敦などはそうである。確かに実証のしようがないことを批評的に述べている。
 ただ、なぜ日本論、日本人論がもてはやされたのかというと、国際化の中で、自分たちはどういう人間なのかを自己認識したいという衝動にも似た思いが日本人の中に醸成されたからだということはできるであろう。その前提として、明治の文明開化以来、日本はいつも欧米先進国からどのようにみられるかを気にして生きてきたという歴史的背景がある。
 敗戦後すぐのルース・ベネディクト『菊と刀』について「恥の文化」である日本文化は「罪の文化」である欧米文化より劣るという取り方を日本人はした。ベネディクトは理念型として「恥の文化」と「罪の文化」を提供したに過ぎないのに。
 1964年ころから「経済大国」となった日本には肯定的自己評価を求める気分が醸成され、それに応えるものとして司馬遼太郎の『竜馬がゆく』がベストセラーとなり、明治の肯定的評価が瀰漫していく。レヴィ・ストロースや河合隼雄の日本人論、欠如=中空モデルもその肯定的評価の流れの中で捉えることができるのかもしれない。真中が空であることを悪いこととは言っていないのだから。比較文化学的には、以上のようなことが言える。


                              2024.3.28  木曜日

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