藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

絶対他力宗について  比較文化学的考察 2024.3.30 土

   絶対他力宗について  比較文化学的考察
 浄土宗は絶対他力宗。阿弥陀仏にひれ伏す。
 内村鑑三は「我々は他力宗についてキリスト教に教えてもらうことはなにもない。我々には浄土宗という絶対他力宗があるからだ」という趣旨のことを述べている。
 内村鑑三はまた、言っている。「キリスト教はいい。しかし、アメリカのキリスト教はだめだ。」
 それは『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』の中で、内村が、白人が私生児を堕胎させたあと、その堕胎死体を焼くアルバイトを老人夫婦がしているのを見たことなどが影響している。ここまでアメリカは拝金主義なのかと内村は慨嘆している。
 絶対他力宗とは、絶対者、絶対的存在の前にすべてを投げ出し、自力を放棄し「自然」に任せるもののようだ。
 それが現実肯定、現実賛美になり、「天皇崇拝」になると、現実全面肯定の、どうしようもない世俗肯定になってしまう。
 かつて、親鸞主義は国体明徴運動の前に、「自力」のマルクス主義者やインテリ学者の滝川幸辰を徹底批判して、国家主義の地ならしをした。中島岳志は島薗進との対談でそう述べている。私たちがこうした歴史を知らないのは、なぜなのか?そのことを考えたい。国家、国家に媚びる権力に都合の悪いことを国の検定済み歴史教科書が教えるはずがないのだ。その結果、「鳴くよ(794)ウグイス、平安京」と年号暗記の歴史の勉強となる。年号暗記が悪いと一概には言えないが、関係性、影響関係で考えないと歴史は面白くもなんともない暗記物となってしまう。そこから先へ行くには比較文化学的な教養が必要になる。


                         2024.3.30   土曜日

×

非ログインユーザーとして返信する