顕彰碑から考える 2024.5.6 月
大村益次郎郷遭難之碑
顕彰碑から考える
京都の町を離れて、定年後、京都に帰り、よそ者の眼で京都を見ると、いろいろと面白いことに気が付く。
例えば、内村鑑三は日清戦争の頃、現在の下立売(しもたちうり)通り小川の辺に住んでいたのだが、石碑すらない。顕彰する人がいないのだ。内村は無教会主義だから、やはり同志社のキリスト教とはそりが合わなかったのだろう。同志社はアメリカの教会から多額の寄付を受けていた。札幌農学校の時から内村は独立キリスト教を提唱し、他国からの経済的援助のない日本でのキリスト教を目指していた。
葭屋町(よしやまち)通り下立売上がる所に石碑がある。山崎闇斎旧居址と記してある。儒教で神道を解釈しようとした山崎闇斎の旧居である。その垂加神道は水戸学と親和性があり、皇国思想の確立に寄与した。堀川通りを挟んで、伊藤仁斎旧居がかつての邸宅を彷彿とさせるのに比べて寂しい石碑である。山崎闇斎は、やはり今でもマイナーなのだろう。内藤湖南は高く評価したが。
御所の堺町御門を入ると、芝生の緑の中に柚子の木が一本目立つ。その近くに木製の掲示板があり、蛤御門の際に焼失した宮家があったことがしのばれる。実はここは久坂玄瑞の自刃した場所なのである。久坂玄瑞ら長州藩士は、蛤御門の際に、宮家に朝廷へのとりなしを依頼したが、聞き入れられないと知ると、宮家に火を放ち、自刃した。久坂玄瑞の自刃については掲示には何も述べられていない。長州藩士とぼやかせて書かれている。
逆に、三条木屋町には大村益次郎殉難碑がある。かなり大きな石造りのものである。大村益次郎が暗殺されて、その後釜に山縣有朋が座った。陸軍創設者、大村益次郎には長州閥の中に顕彰しようという人も多かったのだろう。
少し目に付くものを考えてみただけでも、人々の思惑、意向が窺えて、京都というところは面白いところだと思う。比較文化学的に石碑について考えてみた。石碑もいろいろ比べると、面白いことがわかってくる。
2024.5.6 月曜日