1904(明治37)―1905年(明治38) 日露戦争 1905年(明治38)―1907年(明治40)の漱石の俳句 1905年 朝顔の葉影に猫の目玉かな 1907年 時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半ばに出かねたり 桔梗活けて宝生流(ほうしょうりゅう)の指南かな ... 続きをみる
2022年2月のブログ記事
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もの草太郎 1903年(明治36)―1904年(明治37)の漱石の俳句 1903年 無人島の天子とならば涼しかろ 楽寝昼寝われは物草太郎なり 衣更(かえ)て見たが家から出て見たが 1904年 白菊にしばし逡巡(た... 続きをみる
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1900年(明治33)―1902年(明治35) の漱石の俳句 漱石イギリスへ留学す
ロンドンから友人へ漱石が書いた絵葉書 1900年(明治33)―1902年(明治35) の漱石の俳句 漱石イギリスへ留学す 1900年 阿呆鳥熱き国にぞ参りたる 稲妻の砕けて青し海の上 空狭き都に住むや神無月 1901年 吾妹子(わぎもこ)を夢見る春の ... 続きをみる
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1898年(明治31)-1899年(明治32)の漱石の俳句 1898年 行く春や猫うづくまる膝の上 1899年 秋はふみわれに天下の志 むっとして口を開かぬ桔梗かな 安々と海鼠の如き子を産めり 漱石にとって俳句とはいかなるものであったか。『草枕』に次のようにあるの... 続きをみる
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木 瓜 1897年(明治30)の漱石の俳句 木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙を守るべく 『草枕』で漱石は「節を守る」人は、 来世で「木瓜になる」、「余も木瓜 になりたい」と言... 続きをみる
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1896年(明治29)の漱石の俳句 擬人の句 物言はで腹ふくれたる河豚(ふくと)かな 永き日や欠伸(あくび)うつして分かれ行く 「松山客中虚子に別れて」と前書。客中は 旅にあるあいだ。坪内稔典編(1990) ... 続きをみる
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1895年(明治28)の漱石の俳句 事跡 時代背景 1895年の漱石の俳句で目に留まるのは以下のものである。 見上ぐれば城屹として秋の空 この年、四月から漱石は一年間、愛媛県尋常中学校 嘱託教員として松山に滞在した。 坪内稔典編(1990)p.16 御... 続きをみる
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子 規 漱 石 1892年(明治25)の漱石の俳句 子規への友情・配慮 もともと俳句を始めたのは子規との交流に端を発する。1892年(明治25)漱石は次の二句を作っている。 鳴くならば満月になけほととぎす 学年末試験で落第した子規に、大学を ... 続きをみる
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1891年(明治24)の漱石の俳句 夭折した兄嫁への哀惜の念
1891年(明治24)の漱石の俳句 夭折した兄嫁への哀惜の念 1891年(明治24)7月28日 兄嫁の登世が夭折し、漱石は哀惜の念を表出した俳句13句を作っている。以下、その一部である。 わが恋は闇夜に似たる月夜かな 江藤淳によると、漱石は兄嫁にほのかな恋情 ... 続きをみる
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1915年、死の前年に京都の山崎を訪れた漱石 山荘の命名に王維の詩を候補として挙げる
アサヒビール大山崎山荘美術館 1915年、死の前年に京都の山崎を訪れた漱石 山荘の命名に王維の詩を候補として挙げる 夏目漱石は、生涯に4度、京都を訪れている。大正4年(1915)、最後に訪れた際に大山崎山荘の持ち主である加賀正太郎と出会い、加賀の山荘を訪れた。この4度目の京都への旅は、体調の... 続きをみる
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「触れ合い体験 実は苦手です」 2022.2.14 月 京都新聞夕刊 1面 のタイトルである。京都動物園で、テンジクネズミ(モルモット)が、実は子供らとの「触れ合い体験」が「苦手」だったことが判明したという記事内容である。コロナで約一年半、幼児との触れ合い体験(幼児がテンジクネズミを抱っこしたり... 続きをみる
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漱石は猫派か? 犬派か? 1908年、明治41年9月、『吾輩は猫である』のモデルとなった猫が死んだ。漱石『永日小品』の「猫の墓」の章に、次のようにある。「妻はわざわざその死にざまを見に行った。それから今までの冷淡に引き換えて急に騒ぎ出した。出入りの車夫を呼んで、四角な墓標を買ってきて、... 続きをみる
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一 高 漱石のユーモアと真面目さ 漱石のユーモアがわかる有名なエピソードがある。ある日、漱石が一高で講義しているとき、剽軽な学生が「先生! このイン・グーッド・タイムというやつは、何ですか」と訊いたら、そのとき、ちょうど、授業終了の鐘が鳴り、漱石は「すぐ本を畳んで、『放課の鐘が鳴る... 続きをみる
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漱石と熊楠 三田村信行(2019) 夏目漱石と南方熊楠は、1867年、慶応三年の同じ年の生まれである。1884年、明治17年の9月に東京大学予備門に同時に入学している。翌1885年、試験の結果、落第した熊楠は、翌年にはアメリカに向かい、1900年まで欧米で勉強、研究している。他方、漱石は188... 続きをみる
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漱石の妻 鏡子悪妻論 1896年(明治29)4月、漱石は第五高等学校に赴任するが、その年の6月8日に熊本で中根鏡子と結婚している。漱石29歳、鏡子19歳であった。鏡子の祖父の囲碁仲間が牛込郵便局で漱石の兄の直矩(なおかた)と同僚だった関係から、縁談が持ち上がった(夏目鏡子(1928)『漱石の思い... 続きをみる
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漱石の「則天去私」について 今田康子(令和2)を中心にして 漱石は過去に参禅したことがあり、「父母未生以前の我」という公案を与えられ、うまく答えられなかった経験がある。神経衰弱と癇癪持ちは治らなかった。 今田康子(こんだ やすこ)(令和2)『私の漱石 明暗の表題 明暗雙雙をめぐって』私家版 は... 続きをみる
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漱石の「則天去私」 すみれほどな 小さき人に 生まれたし 江藤淳は「則天去私」という言葉に近代人の生き地獄からの脱出を夢見ていた漱石を 見出している。「天」というより、「地」の生命力に、孤独とエゴイズムを超える契機 を見出していたように思われるとし、「近代」のかなたに... 続きをみる
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江藤淳「漱石の文学」 漱石の俳句 やすやすと なまこのごとき 子を産めり
江藤淳「漱石の文学」 江藤淳「漱石の文学」(新潮文庫『草枕』のあとに付属の文章)は漱石文学の核に潜んでいるものは「寄席趣味に象徴される江戸的な感受性」であるとし父親が江戸の名主(武士文化と町民文化の両方を知っている)であったことの影響を述べ、漱石文学に江戸との連続性を見出している。一体、明治の... 続きをみる
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柄谷行人の「『草枕』について」 柄谷行人の「『草枕』について」(新潮文庫 夏目漱石『草枕』所収)は、漱石は『草枕』という「俳句的小説」を「19世紀西洋の“文学”への批評として書いた」とする。「文学」とは近代西洋のそれだけではなく、『草枕』のような奇妙な小説も「小説の小説」として読んでよいような... 続きをみる
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漱石の『草枕』 漱石の『草枕』に次のような一節がある。 忽ちシェリーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えた所だけ暗誦してみたが、覚 えている所は二三句しかなかった。その二三句の中にこんなのがある。 We look before and after ... 続きをみる
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北京冬季五輪について 昨日、2022年2月4日、日本時間午後9時(現地時間午後8時)から北京冬季オリンピック開幕式が行われた。私が注目したのは、各国選手団の入場行進が、国の漢字の画数の少ない順になっていたことである。したがって、一番、最初は❝土耳其❞である。これは「トルコ」の音訳である。基準を変... 続きをみる
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西洋と日本の「自然」概念の相違 日本を経て中国に移入された自然主義の特徴
西洋と日本の「自然」概念の相違 日本を経て中国に移入された自然主義の特徴 西洋の自然主義における「自然」とは客観的、科学的な意味での「自然」であった。日本の自然主義の「自然」とは道徳や善悪の判断を超えたところに存する人間の内面の自然、あるがままの心の動きとしての「自然」であり、古来... 続きをみる
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自然主義をめぐる中日現代文学の比較上の相違 中国の自然主義は日本を経て一九二〇年前後に介紹され《小説月報》には暁風訳の島村抱月「文芸上の自然主義」や李達訳の官島新三郎著『日本文壇の現状』が載せられた。 中国の文学者の自然主義に対する態度はおおむね否定的である。たとえば周作人は沈雁冰あての... 続きをみる
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2022.2.1 火 BS3 午後9時―10時 アナザーストーリー 村上春樹 犬HKの神話作りへの阿り
2022.2.1 火 BS3 午後9時―10時 アナザーストーリー 村上春樹 犬HKの神話作りへのおもねり 三部構成の村上春樹神話作りの番組。 第一部 村上春樹の人と経歴 村上春樹が早稲田時代、新宿のジャズ喫茶 Pitin で渡辺貞夫が演奏し、吸っていた煙草を床に捨て、唾を吐き、靴でもみ消... 続きをみる
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日本の自然主義とヨーロッパの自然主義の相違 田山花袋『蒲団』
日本の自然主義とヨーロッパの自然主義の相違 田山花袋『蒲団』 一九〇六年に先立つ一九〇一(明治三四)年にすでに高山樗牛は「美的生活を論ず」を書き、「本能」=「人性本然の要求」を「満足せしむるもの」を「美的生活」と呼び、「人生の至楽は畢竟性欲。」と言っている。この思想は「ニーチェ主義」と... 続きをみる