藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

 1971   米  ダーティハリー

     


  1971 米  ダーティハリー  2023.1.14 BS12 pm7:00-9:00
    あらすじ
  サンフランシスコの屋上プールで泳ぐ女性が狙撃されて亡くなる。捜査にあたったのが汚れの仕事をいつも任されるのでダーティハリーという異名のあるハリー・キャラハン刑事(クリント・イーストウッド)である。
 やがて「サソリ」と名乗る犯人から「10万ドルを渡せ。さもないと、市民を殺し続けるる」という脅迫状が届く。少女を誘拐した「サソリ」にハリーは身代金を持って、時間を区切られて、あちこち走り回らされる。
 犯人はハリーに暴行されたと嘘をつき、マスコミはハリーを批判する。犯人は最後にスクールバスジャックをして、ハリーはバスの屋根に飛び乗り、逃げる犯人を追跡し、最後は射殺する。
 ラストシーンで、五つ星の形の警官バッジを遠くへ放り投げて捨てるハリーが映し出される。「やってられるか!」という意思表示に見える。


    ノート
 ハリーの妻は車に乗っているときに、他の車に追突され、何も悪くないのに即死する。ハリーには、理不尽な犯罪への怒りが根底にある。誘拐された少女の命を守ろうと最大限の努力をする。また、ハリーには、犯人と断定した場合は容赦なく射殺するという考えがある。大きなマグナム21が火を吐く。
 アメリカの自由社会が生んだ暗部を描く。犯人は、かっとなると自分を見失ってしまい、人に当たり散らす異常性を持つ。また、酒を買うふりをして酒屋に入り、渡された酒瓶で酒屋主人を殴りつけ、売上金を奪う攻撃性、衝動性を持つ。アメリカにはそうした異常者が日本より数多く存在する。自分と自分の家族を守るために、銃は必要だということになる。
 激しい競争社会のアメリカには、共同体的な他者と一体感を持てる場が必要なのだろう。キリスト教はすでにその力を失っているのだろう。個人が悲鳴を上げて、その怒りが他者へ攻撃的に吐き出される。高度経済成長とともに共同体が失われ、孤立化した個人が悲鳴を上げているのは現今の日本についても言えることである。日本も徐々にアメリカ化している。
 日本はアメリカを真似ていい点と悪い点を明晰に認識すべきである。


                              2023.1.18  水曜日

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