岡倉天心と道教
岡倉天心と道教
福永光司(2018)『道教と日本人』新装版 人文書院 の中に「岡倉天心と道教」の章がある。その章によると、天心にとって道教は、唯物的道教と哲学的道教の二つがあり、前者は密教とマリアージュしたもので、不老不死や媚薬と関係が深い。それに対して、後者は天心のあこがれであり、茶道は変装した哲学的道教であり、些事が大事である。
『荘子』の「多にして一」は「万物斉同」(万物は斉しく同じ)のことであり、道は一つであって、天であり混沌である。
「アジアは一つ」は他を包摂する一のことである。
ノート
明治のインテリは、日本はアジアの博物館であると考えた。三宅雪嶺しかり、岡倉天心しかり。法隆寺のエンタシスにギリシア建築の名残を見出したのも同じ発想である。
天心の「アジアは一つ」は国粋主義者佐野常民に利用され、宮川寅太郎は「天心にも利用される落ち度があった」と主観的な、後出しじゃんけん的断罪を行っているが、天心の「アジアは一つ」は哲学的道教の「一にして多、多にして一」の思想の現れであると思う。中島岳志氏も天心の思想についてそうした考えを述べている。
戦争って、相手は同じ人間じゃない、野蛮な猿だ、だから殺してもいい、どんどん殺せという発想で行うものだと思う。かつての日本の鬼畜英米思想もそうだけど、仕掛けてきたのは毛唐の奴らだから、今度はあいつらに逆襲してやろうじゃないかと考えるぐらいの日本人は出てこないかねえ。合法的に、平和にするなら、問題はない。アニメや「おもてなし」で身も心もぐにゃぐにゃにしてやろうじゃありませんか。
2023.3.25 月曜日