モース(1925)『贈与論』から考える「利他」とは? 2024.1.24
モース(1925)『贈与論』から考える「利他」とは?
ピティー pity 哀れみ による利他的行為は、その対象に対して一種の支配的立場が生まれてしまう。(p.76) cf.志賀直哉「小僧の神様」の貴族議院議員Aの、貧しい小僧に匿名で寿司をたらふく食わせた際に感じた「イヤな気持ち」。ピティーへの違和感。
残酷で支配的なピティーに対して、コンパッション compassion =慈愛という要素の強い言葉 に基づく贈与は、困っているどうしようもない、業の深い衆生をオートマティカルに救う、阿弥陀如来の救罪の業によって、人間の意思の外部によって成立している力=阿弥陀の本願 によって成立している力 によって可能になる。(p.76,105)
モース(1925)『贈与論』によると、「贈与」は 「交換」とは異なり、霊的な本質、魂を受け取ること(クラ交換)である。社会的なつながりや連帯、すなわち贈与によって成り立っていたシステム自体が近代社会やマーケットによって失われてきている。これがモースの非常に強い危機意識であった。
モースは一種の社会主義的な思想を強く持っていた人で、社会を転換させなければならないという危機意識のもとに『贈与論』を書いた。ハウが命じる交換は、人間の意思の外部によって機動している交換システムであることをモースは非常に重視している。(p.81)
注:マオリのハウ=物に宿る精霊のこと。森からやって来るが、特定の人や集団にとどまりつづけるのを望まないので、人から物をもらったら、誰かに返礼したり、渡したりしなければならない。(p.80)
第二章 利他はどこからやって来るのか 中島岳志 中島岳志等(2021)『「利他」とは何か』集英社新書
ノート
親鸞流の「他力」本願に基づく中島岳志氏の論である。意思や意欲では本当の「利他」は行い得ない、「人間の意思の外部によって成立している力」によって本当の「利他」は成立するというのはなかなか深い。しかし、戦争協力した浄土宗、浄土真宗の実態を見ると、教団と宗教理念とは別物だと思ってしまうのは、自然な感情であろう。個人の信仰と教団の宗教とは、別物だと思う。一般人の常識的な感覚だと思う。私は内村鑑三の無教会主義に前から惹かれている。信仰は個人の内心の問題だが、宗教は教団を絶対と信じ込むことだから、宗教はしない人が多いであろう。
2024.1.24 水曜日