藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

  煩悶青年         2024.2.9

    

         藤村操
       煩悶青年
    1880年代以降に生まれた青年は、日本が欧米と肩を並べ始めたころから立身出世に疑問を持ち始める(p.35)。それは明治後半以降のエリート青年の特徴である(p.55)。
   1903年(明治33)藤村操の華厳の滝投身自殺はその象徴的事件であろう。
 1894年から1906年の日清・日露戦争を経て宗教が個人の内面と深く結びつくようになっていく(p.60)。この時期の煩悶する青年のことを「煩悶青年」という。
 煩悶青年の中には極端な超国家主義の尖兵になっていく青年もいて、子規の、世界をありのままに表現する「写生」と親鸞の「自然法爾」(=あるがまま)の二つを感得した三井甲之はその典型的な人物で(p.61)、「絶対他力」=自己の賢(さか)しらな計らいを捨てる の導きに促されて生きながら、世界をありのままに自然に表現することが「写生」の本質であり、「宗教」は歌うべきものであると感得した。さらに自分にとっての自然とは、祖国日本との一体化=「自然法爾」の精神に他ならないと三井は考えた(p.62-63)。
  中島岳志 島薗進(2016)『愛国と侵攻の構造 全体主義はよみがえるのか』集英社新書



    ノート
 昭和の天皇機関説批判で三井甲之は中心的人物として、他力の視点から自力のインテリらを徹底批判して、超国家主義台頭の地ならしをした。
 天皇機関説は、明治前半期にもあったが、当時は当たり前のこととして容認されていた。それが、昭和になって、美濃部達吉の天皇機関説が問題視される背景には、従来、明治の元勲が既に存在せず、政治的バランスを欠くようになっていたからと説明されるが、中島岳志 島薗進(2016)では、三井甲之らの親鸞主義による超国家主義者が全体主義へ向かう地ならしとして美濃部らの天皇機関説批判を行ったとしている(p.50-51)。こうした関係性で歴史を読み解く視点が比較文化学的な視点である。従来の歴史教育では、三井甲之等のことを教えない。「昭和になって天皇機関説批判があって、全体主義に進んでいった」と教えるだけである。歴史が嫌いになるはずだ。歴史は相当の教養がなければ、教えられるものではない。だから、何年に何があった式のテストを行うことしかできない。暗記も大切だが、教師は事象の関係性を読み解く力が必要だ。そんな歴史の教師はほとんどいないだろう。中島岳志の本は読んだ方がいい。この人はヒンディー語ができるんです。半分が卒業できない地獄のヒンディー語科(旧大阪外大)の出身です。そのあと、京大の東南アジア研究センターで勉強している、異色の教養人。

 歴史の研究者も忖度する人が多い。上記のことでも親鸞関係から批判されることを恐れるから、触れないようにする。教科書なら、さらにそうだろう。それで、794(鳴くよ)ウグイス平安京 を教えることになるのである。ホーホケキョ🎵


                                2024.2.9  金曜日

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