藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

吉本隆明の科学原罪論と親鸞の悪人正機    2024.2.21

    

     吉本隆明の科学原罪論と親鸞の悪人正機
 吉本隆明の反原発批判は、原発は科学の行き着くところであり、完全な原発防御施設をつくるしかないという考えに基づく。
 吉本隆明の反原発批判には二つの側面があり、一つは進歩主義の側面で、科学の進歩は人類の進歩であり、理性・知性の無謬性を基礎とする設計主義的合理主義に依拠している。もう一つは、科学を進歩させ、原発を作ってしまったことを吉本は「原罪」ととらえていて、原発の否定は人間であることを否定することになると主張している側面である(pp.139-140)。
   吉本の問いはクライム crime   とシン   sin    の問題にかかわる。原発はクライムにかかわるもので、政策や法的な次元で論じるべきである。原子力の探究そのものは、シン、つまり「人間であることの罪」にかかわるものである(p.140)。
   この「人間であることの罪」は親鸞の悪人正機説の悪人という問題と重なる。
 原罪も悪人も、人間は常に罪を背負っている不完全な存在と考える点で中島の言う「保守思想の立場」と合致するが、そこに「自然法爾」の思想が加わると、原発肯定、近代科学の全面肯定という論理がつくられてしまう(p.140)。 中島岳志 島薗進(2016)


   ノート
 人間は罪深い存在だから、それをそのまま受け入れて、原発肯定、近代科学の全面肯定でよいという考えには同意できない。宗教は、原発、近代科学の全面肯定に対して、心の問題を説いてきただろうが、極めてあいまいで、結局は黙認してきたのではないか。現世利益の悪い面を克服していない。宗教者は真面目に考えたことがあるのだろうか。


                               2024.2.21  水曜日

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