藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

 白樺派について 2024.3.15

              志賀直哉


    白樺派について
 藤村操の自殺があり、死生問題が取りざたされてから、志賀直哉の「城の崎にて」が刊行されるまで十数年である。その間は「文学的に死を書く」という課題が自覚される過程であった。乃木希典の殉死があり、漱石の『こころ』や森鴎外の『阿部一族』『高瀬舟』が書かれた。トルストイ的なヨコの関係への発展の可能性を持った死生観表出の可能性はなかったのか。白樺派が好んだ個の主体性に即して死生観表出を行った志賀直哉の道とは異なった道はなかったのか。(p.114)  島薗進(2012)『日本人の死生観を読む』朝日新聞出版


   ノート
 島薗進。東大宗教学・宗教史学研究室教授。主な研究領域は、近代日本宗教史、死生学。
 「トルストイ的なヨコの関係への発展の可能性」とは社会との関係を意識した関係への発展の可能性のことを指す。逆に言うと、白樺派の文学は「個人の主体性」つまり個人の内面へのこだわりに偏しすぎていたのではないかということを示唆している。
  白樺派の「個の確立」に対する批判として、彼らは社会から遊離していただけで、当時、世はアメリカニズム賛美の雰囲気が大勢であったという考えがある(例えば竹村民郎)。広く社会階層を意識して比較文化学的に見ると、そうした見方になる。白樺派という文学史的存在だけでなく、大衆社会の大勢も見なければならないということである。特権的文学者と大衆の乖離。このことについてはいずれ稿を改めて述べたい。
 今までの研究は、「分析的」に、文学史、社会史、経済、政治史と分けてみるだけで、一人の人間が教養をもって「総合的」にその時代を考察するということが稀であった。
 色川大吉氏などは民衆史の視点から近代を再考察したが、そうした人は非常に少ない。
 大学の学問が「象牙の塔」の学問となって久しい。そろそろ比較文化学的な「総合的」学問が評価されていい時期ではないかと思う。大学の「分析的」学問はすでに多くの学生にとって魅力的なものではない。生涯賃金が4000万ぐらい違うから、大学に行くという学生は多い。そして、それも一概に批判はできない。その上で、大学は今の時代に合った教養を提供しなければならない。上に従順に研究し「博士号」をとった、「分析的」研究だけしてきた教員にそれができるだろうか。日本の大学の将来は明るいものではない。拝金主義の道具の一つに成り下がってしまっている。


                           2024.3.15     金曜日

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