藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

漢字 カタカナ ひらかな から考える

漢字 カタカナ ひらかな から考える
  真名(まな)と仮名(かな)。テレビタレントの双子姉妹ではない。漢字のことを 真名(まな)と呼び、かなのことを仮名(かな)と呼んだ。中国の文化を本流とし、中華、中心とする考えに基づく。「本当の名」と「仮の、当座の名」。悲しい。日本人の中には常に、そうした引け目があった。しかし、同時に小中華主義もあった。663年、白村江の戦では、圧倒的不利の中、唐の要求を拒否して、日本の言うことを聞かなくなっていた百済とともに新羅と戦って、大敗した。中国の冊封関係に入ることへの拒否の表れである。元との戦いでは、神風が吹いて、元を撃退したと日本人は信じて「日本文化の独立」がなったと内藤湖南は言う。江戸時代には独自の儒学の発展があった。伊藤仁斎。山崎闇斎等。明治維新以来、欧米化は進み、中国を侵略するまでになったが、それは小中華主義の天皇崇拝主義が中国崇拝主義にとって代わったからである。
 清による中国の異民族支配は中華の失墜をコリアや日本に意識させ、両地域では小中華主義が隆盛する。コリアの朱子学は中国より精緻である。コリアは、我々こそ真の中心だと思った。日本では光圀が『大日本史』を編纂した。日本こそ中心であると考えた。
 しかし、漢字は公的な文書では主の位置を占め、行政文書は抽象的な漢語で埋められている。最近は、それに代わって、あいまいなカタカナ英語が氾濫する。「課」に代わって、「チーム」が役所、大学事務等でも使われる時代である。漢字は元来、抽象的な概念を表す語であったが、今ではカタカナ英語がそれにとってかわりつつあるのは、「権威」が移行したからである。75年来のアメリカ頼みの日本の当然の結果である。
 しかし、日本には漢字読み下し文、訓読の歴史があるのだから、日本的でもよいから、中国の古典、日本人の中国古典の受容について教養を持つのは、深い教養を持つために必要であると思う。心の中までアメリカになってよいわけではない。バナナ(外は黄色くて、中は白い)になってよいわけではない。我々には、アメリカにはない伝統がある。それを自覚したい。中国が台頭してきているではないか。かつての日本人の教養を持つことから始めよう。どうしようもないアメリカ流ゲス拝金主義に勝つにはそれしかない。彼らは支配しか考えていない。自分より優れたものは許さない。トヨタ、大丈夫か❓




                                2022.1.8  土

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