藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

漱石の憂鬱  欧米近代とどう折り合いをつけるか


漱石の憂鬱 欧米近代とどう折り合いをつけるか
 北川扶生子(2020)『漱石文体見本帳』勉誠出版刊 は、文章は、です・ます調、意味は難解、しかし、中身の深い本である。「近代化」とは「均質化」であり、前近代の日本語が持っていたTPOの使い分けは、言文一致体という、誰でもどんな場面でも使える文体へと、統一されていった、それは普遍的な「人間」へと送り手と受け手の社会階層の違いが統一されていったことを意味し、近代が「万人が平等な市民社会である」という(注 理念としての)通念と対応していると北川氏は言う(p.263)。しかし、平準化された言葉と社会の中で生きる我々には、近代以前の日本語表現の幅広さは、また、豊かさとも映り、漢文調は、「公」「崇高」という感情を表現する方法と同時に、その崇高なものを茶化す方法の両方を豊かに育んでいた(pp.263-264)という北川氏の考えは、「いま、私たちは、そのような表現方法を共有しているでしょうか。感情を盛る共有の器を持たないことは、そのような感情と、成熟した厚みのある付き合い方をする方法を持っていない、ということなのかもしれません。」(p.264)と現在の近代以前の日本語表現の幅広さの喪失を「自覚」し、嘆いていると考えられる
 北川氏の考えでは、『吾輩は猫である』は漢文調による「崇高なものを茶化す方法」によって書かれたものであり、「吾輩」という猫の自称の言い方自体がそのことを象徴しているということになる。江戸時代後期の戯作の中の滑稽本が明治になって写生文というジャンルに受け継がれ、そこから生まれたのが『吾輩は猫である』である(p.31)。
   漱石は、小説の文体が言文一致体に統一されていくちょうどそのころに、あえてレトロな漢文調のスタイルを要所要所で駆使して『虞美人草』を書き、漢文調の効果で、ヒロイン藤尾の死を「悪女の死」にしてしまった(pp.31-32)。
   漱石は晩年(と言っても49歳)、朝に西洋近代小説を模した個人のエゴが渦巻く『明暗』を執筆し、午後は漢詩を書いて、精神のバランスをとったという。私たちの現在は、そうした教養のある生き方とはかけ離れた、拝金ゲス野郎がアメリカ拝金主義にひざまづいて跋扈する時代である。教養のある生き方を目指したい。それは、大学でないところで「真理の探究」を目指す生き方である。大学はすでに拝金ゲス野郎の巣窟と化している。文系の教養が皆無の、理系の教授は、通信・原子力・機械・軍事などの金になる研究をすることによって地位があがる。独立行政法人の国立大の学長は、ほとんどが医学部、附属病院の教授出身である。大学収入の6割が付属病院収入だからである。「権力は腐敗する。絶対に腐敗する。」という箴言がある。戦争は地方から始まるという言葉がある。大学は地方から文科省、国に支配される。


アメリカおけさ 🎶 🎵 💧


  アメリカ拝金主義、アメリカ拝金主義へ と草木もなびく 🎶 よいよい🎵
  アメリカ拝金主義そんなにいよいか住みよいか 🎵
  戦争起こして金儲け 代償は一般人の命
  テロの元凶 反省の色なし ゲスアメリカ拝金主義 ああ チョイな チョイな🎵 🎶  💧 💧 💧


                                 2022.1.20  木

×

非ログインユーザーとして返信する