藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

日本のロマン主義


日本のロマン主義
 日本のロマン主義は一八八九(明治二二)年ごろから一九〇四(明治三七)年ごろまで続いたが、それは前の早期写実主義が西洋文学を模範又は規準として芸術性を強調するとともに、非功利的客観主義の小説観を確立しようとしたのに対して、西洋文学の中に培われてきた「宗教的、哲学的、あるいはヒューマニスチックな思想」(三七)に目を向ける中から生まれてきたものであった。西洋文学、西洋文化の根底にキリスト教が存在することは今ではもはや自明の事がらであるが、日本のロマン主義の代表者の一人である北村透谷もキリスト教に傾倒していった。また、北村透谷は『文学界』とともに、「恋愛は人生の秘鑰(ひやく)なり」(三八)(筆者注 :「恋愛は人生の秘密の鍵である」という意味)という言葉、その恋愛至上主義で名を知られているが、そうした恋愛至上主義もキリスト教を媒介とした個人の尊重、重視という考えと密接に関係があるものと言えよう。
 初期の日本のロマン主義を育てた森鷗外の舞姫三部作や『即興詩人』も恋愛、または悲恋の物語であったし、与謝野晶子に至っては恋愛至上主義の実践者であった。そして、いずれも個人の尊重、重視をその基本とするものであった。北村透谷の『厭世詩家と女性』(一八九二年)の先の「恋愛は人生の秘鑰なり」という個所を読んだときの衝撃を木下尚江は次のように記している。「この様に真剣に恋愛に打込んだ言葉は我国最初のものと想ふ。それまでは恋愛―男女間のことはなにか汚いものの様に思はれてゐた。それをこれほど明快に喝破し去ったものはなかった」(三九)。
 ロマン主義的作品に発表の場を与えた雑誌としては『文学界』以外に、キリスト教の影響の下(もと)に個人主義と平等主義を標榜した『国民之友』(徳富蘇峰創刊)や『帝国文学』『太陽』などがあるが在日中国人留学生もそれらを手に取ってみたことであろう。
 新国家が基礎を固め、天皇を精神的支柱として更に拡大、膨張し、他国を侵略していこうとする時期に、日本のロマン主義は個人の尊重、重視を中心的精神とし、拡大、膨張していこうとした。やがてそれは挫折していくのであるが、従来、汚物視されていた恋愛を前面に引き出した意義は大きい。もっとも、その挫折は個人の尊重、重視によって自由を得た「自我」を苦しめていくことになるのであるが。(続く)(拙著(2011)参照)


〔注〕


(三七)ドナルド・キーン著 徳岡孝夫訳(1995) 二六二頁
(三八)勝本清一郎(一九五〇―五五)二五四頁
(三九)木下尚江「福澤諭吉と北村透谷」小田切秀雄編(一九六七)三八三頁


                           2022.1.27      木

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