藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

日本の自然主義とヨーロッパの自然主義の相違  田山花袋『蒲団』



日本の自然主義とヨーロッパの自然主義の相違  田山花袋『蒲団』


     一九〇六年に先立つ一九〇一(明治三四)年にすでに高山樗牛は「美的生活を論ず」を書き、「本能」=「人性本然の要求」を「満足せしむるもの」を「美的生活」と呼び、「人生の至楽は畢竟性欲。」と言っている。この思想は「ニーチェ主義」と呼ばれ、非難もされたが、のちに石川啄木は「時代閉塞の現状」で当時の青年に個人主義を吹き込んだのは高山樗牛であったと回想している(五二)。高山樗牛は一九〇二(明治三五)年に没するが、その年には永井荷風の「人生の暗黒面を実際に観察して、其報告書を作ると云ふ事が小説の中心要素たるべきもの」というゾライズムが起こる。荷風の「地獄の花」のあとがきには「祖先の遺伝と境遇とに伴ふ暗黒なる幾多の欲情、腕力、暴行等の事実を憚(はばか)りなく活写せんと欲す」とあるが、「小説は全体として大自然の美を描きつつ、女教師が〈名誉、地位、権勢、体面〉に縛られた己れから解放されるまでの物語」(五三)であって、荷風の思想はゾラの思想というよりは「既成宗教と社会規範からの自由と同時に禁欲的な生活を訴えるトルストイの思想に近い」(五四)と言える。同じく一九〇二(明治三五)年には長谷川天渓が「自然主義とは何ぞや」を著し「自然主義」の主張を始める。
 日本の自然主義の代表作品と言えば田山花袋の「蒲団」(一九〇七年)であるが、その時には既述のような一九〇五年までの個人主義、性欲礼讃、トルストイ主義の混然一体となった状態ではなく、個人の内面の暗黒を暴露する日本的自然主義が輪郭を明らかにする状態に到っていたと言える。そして日本の自然主義とヨーロッパの自然主義には次のような相違があった。「ヨーロッパ自然主義は、主としてそれまでの浪漫主義文学における個の偏重への反応として起こったが、日本の自然主義文学の最大の特徴は個の探求にあった。個を追求しようとする努力は、独特の浪漫主義文学が短い開花期を過ぎたのちに強まり、やがて小説の中に著者の個性確立を試みる私小説として究極の表現を得た。ゾラやモーパッサンの自然主義は、人間を科学的に観察する手段としては理解されず、いっさいの虚構と想像力を排した実際の事実そのままの忠実な再生として解釈された。多くの場合、日本の自然主義作家が出発点として選んだのは自分自身であり、みずからの煩悶(はんもん)だった」(五五)
 ゾラは「自らの主要な任務は純粋な自然主義者、純粋な生理学者になること」であり「私には何の原則(王権、キリスト教)もなく、いくらかの規律(遺伝、先天性)があるだけである。」(五六)と言ったが、既述のように荷風のゾラの解釈はトルストイ的であったし、長谷川天渓の「幻滅の悲哀」または「悲哀」はヨーロッパの自然主義の特徴ではなく、日本の自然主義の基本特徴(五七)であった。
 以上のように個の探求を最大特徴とする日本の自然主義は私小説に結実していくのであり、ゾラやモーパッサンの自然主義も科学的観察手段としてではなく、実際の事実の忠実な再生として解釈されたのであった。「日本の自然主義作家が出発点として選んだのは自分自身であり、みずからの煩悶」であったが「蒲団」の場合も、その例外ではなかった。「蒲団」の主人公、竹中時雄は地理会社に勤めながら小説を書く男である。そこに竹中の作品に感動し、押しかけるように上京してくる横山芳子が登場する。竹中時雄はやむなく女弟子にした芳子に肉欲を感じつつ、苦悩するが、やがて芳子は竹中のもとを去っていく。芳子が田舎に帰った後、竹中は押入れから芳子が使っていた蒲団を出して顔を埋める。


 女のなつかしい油の勾ひと汗のにほひとが言ひも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟の天鵞絨(びらうど)の際立って汚れて居るのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の勾ひを嗅(か)いだ。
 性慾と悲哀と絶望が忽ち時雄の胸を襲った。時雄は其蒲団を敷き、夜着(よぎ)をかけ、冷たい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。薄暗い一室、戸外(おもて)には風が吹(ふき)暴(あ)れて居た。
(五八)


 ロマン主義の詩人が恋愛と自己を謳い上げたのに比べると自然主義の小説家は自分たちの愛欲生活のもっとも醜悪な部分に目を向け、その煩悶がかえって滑稽感をさそう寸前まで書き及んだ(五九)と言える。



〔注〕
(五二)鈴木貞美(一九九六) 六二―六三頁
(五三)鈴木貞美(一九九六) 六六頁
(五四)鈴木貞美(一九九六) 六七頁
(五五)ドナルド・キーン著 徳岡孝夫訳(一九九六) 一四―一五頁
(五六)王向遠(一九九八)『中日現代文学比較論』湖南教育出版社 六五頁
(五七)王向遠(一九九八) 七二頁
(五八)田山花袋(平六)「蒲団」日本近代文学大系『田山花袋集』 角川文庫    一九四頁
(五九)中村光夫(一九五八)『風俗小説論』 新潮文庫 新潮社 一四九頁


                                                                                        2022.2.1         火

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