漱石(1905-1906)『吾輩は猫である』 あらすじ 九、十 + ノート
『吾輩は猫である』 原稿
漱石(1905-1906)『吾輩は猫である』 あらすじ 九、十 + ノート
あらすじ 九
「主人は痘痕面である。御一新前はあばたも大分流行ったものだそうだが日英同盟の今日から見ると、こんな顔はいささか時候後れの感がある。~」
主人のあばた面の話。主人はあばたが目立たないように長髪にし、いつも鏡を見て、あばたが目立たないように気を付けている。鏡はうぬぼれの醸造器であると同時に自慢の消毒器である。
女中のおさんが主人に郵便物を持ってくる。やがて、迷亭がやってくるが、静岡の迷亭のおじを同伴で、主人は彼らといつものように雑談する。
あらすじ 十
「「あなた、もう七時ですよ」と襖越しに細君が声を掛けた。主人は眼がさめているのだ
か、寝ているのだか、向うむきになったぎり返事もしない。返事をしないのはこの男の癖
である。~」
主人の家の朝の情景描写。主人、細君、子供の食事風景。主人の姪、雪絵がやって来て、細君と話す。雪絵は、おじさんはあまのじゃくで、あれが道楽なのだと言う。雪絵と細君の雑談が始まる。金田の娘の登美子に艶書(ラブレター)を送った者があるとか、細君と雪絵の雑談は続く。
主人が泥棒のことで、日本堤分署へ行き、帰ってきて雑談に加わる。雪絵と主人がけんかになったところへ、中学校の生徒がやってくる。名は古井武右衛門という。古井の名を借りて浜田という学生が文章を書き、誰かが艶書を金田の娘に送ったという。寒月がやって来て、学生は帰る。寒月が誘って、主人と外へ出ていく。
ノート
漱石にもあばたはあって、気にしていたようだ。当時の中学生は、かなり荒っぽい者もいて、退学処分になったりした者もいる。学校の規則に不服で、ストライキをしたりする者もいた。石川啄木などはそうしたあぶれ者の一人で、明治の30年代、1900年代というのは、日本社会が資本主義発展に伴って、人々の苦悩も増大していく時期である。日露戦争後は、国家は勝手に帝国主義で大きくなればいい、自分は自由に生きていくという雰囲気が社会に満ちて、国家は『戊申詔書』(1908年10月14日に官報により発布された明治天皇の詔書の通称。 日露戦争後の社会的混乱などを是正し、また今後の国家発展に際して必要な道徳の標準を国民に示そうとしたもの。 この詔書をきっかけに地方改良運動が本格的に進められた。 ウィキペディア 閲覧。)を出して、風紀の引き締めに躍起になった。1910年(明治43)の大逆事件で、天皇のことはうっかり話せないタブーになっていく。
2022.4.7 木