漱石(1905-1906)『吾輩は猫である』 あらすじ 七、八 + ノート
漱石(1905-1906)『吾輩は猫である』 あらすじ 七、八 + ノート
あらすじ 七
吾輩は最近、運動を始めた。新式運動には蟷螂(かまきり)狩り、蝉(せみ)取り、松滑り、最後に垣巡りがある。服装についての吾輩の考えを述べた。裸体画は誤りである。
薬湯、鉄砲などについて、とりとめのない話が続く。
主人と細君の話。主人が細君に吾輩を鳴くまでぶてと言うので、吾輩がニャーといってやると、主人は「今、鳴いたニャーは間投詞か?副詞か?」と細君に聞いた。細君がわからないと言うと、主人も「急にはわからん」と言った。
大町桂月が、酒を飲めと言ったと言い、酒をいつもよりたくさん飲む主人。最後に、茶漬けを二膳、食ったようだ。
あらすじ 八
落雲館と称する私立の中学校が近くにあるが、その中学校の話。その中学校からボールが飛んできて、主人とひと悶着あった話が書かれている。
ノート
言文一致体は明治20年(1868)から40年(1908)の間に、徐々にできていったが、漱石が『吾輩は猫である』を書いたころには、漢文体を書ける者はほとんどいなくなり、それは日清戦争で清が敗北したことと大きく関係しているのであるが、漱石は漢文体や言文一致体(ありていには文末を「である」「です」「ます」体にすること)を混ぜて、この小説を書いている。「吾輩」というのは、偉そうな言い方だが、猫は家で軽んじられる立場であり、猫の人間を批判する上から目線の物の言い様と人間にさげすまれる立場に落差があり、「諧謔」が生じている。1900年代最初は、「煩悶」の時代で、1903年の藤村操の華厳の滝での「人生、不可解なり」という言葉を残しての投身自殺は、時代を象徴する事件であったが、藤村は漱石の教え子で、自殺の三日前に漱石の授業を受けている。予習をしていなかった藤村を厳しく叱責した漱石は、そのことを気にして、新体詩を書いて、藤村を鎮魂している。「煩悶」という言葉は『吾輩は猫である』の中でも象徴的に使われている。
2022.4.6 水