藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

縄文と弥生


   縄文土器               弥生土器


縄文と弥生


○原始時代(~3 世紀まで)
 1 万年前から紀元前 300 年頃までの縄 文時代は主として狩猟、漁業、採集などによっ
て生活していた。土器に縄の模様を付け始めたことから縄文時代という。その後、3 世
紀までの弥生時代は、稲作を行い、金属器を使い、日本人の生活の原型を作った。

「弥生」という名称は、1884 年(明治 17 年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町(現在の東
京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに
由来する(なお、その後の都市化の進展などもあって正確な発見地は特定できなくなっ
ている)。 当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、
その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。(ウィキペディア閲覧)
 縄文時代の人々は、竪穴式住居に住み、弓矢での狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の
採集と調理、後には栽培など、多様な手段で糧を得た。保存と煮炊きに縄文式土器を用
い、様々な用途に打製石器・磨製石器と骨角器をあて、丸木舟を用いた。
人々の交流は
広い範囲にわたり、時には環状石籬(環状列石)、巨木工事のような大事業を起こした。
 縄文人は、旧石器人を基調としつつ、旧石器時代末期に細石器文化を持って北方から日
本列島に渡来した原モンゴロイドや南海から渡来したオーストロネシア語族、さらに中
国の長江下流域から照葉樹林文化を携えて渡来した集団など幾派もの移住が重層して
形成されたと考えられる。(ウィキペディア閲覧)
 弥生時代は、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前 10 世紀中頃から 3 世紀中頃までにあたる時代の名称である。弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった(しかし、近年になって縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡の土器片中からプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約 3500 年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることが判明し、また水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたことも判明しつつあり弥生時代のはじまりははっきりと定義できない状態である)。(ウィキペディア閲覧)
 縄文的なものと弥生的なもの
 戦後の縄文的なものへの注目
 縄文的なものへの注目は、明治以来の研究もあるが、とりわけ戦前の弥生的なものによ
る皇国史観への反省から、考古学の分野で戦後ここ数十年の間に高まり、各地で発掘、研究が続いている。しかし未だ不明なことが多い。美術の上では、岡本太郎の写真集やエッセイなどの先駆的な着目に始まり、最近ではようやく「日本美術史」の冒頭に記述されるようになった。(拙著私家版(2018)『増補版 日本文化概論Ⅰ―Ⅴ』参照)


  ノート
 岡本太郎は縄文のエネルギッシュな生を賛美した。「芸術は爆発だ!」ということばで有名な岡本太郎が縄文に注目したのは、明日をも知れぬ狩猟にかける縄文人のバイタリティーであった。
 ○明治期、皇国史観が支配する中で、縄文人は当時日本人の祖先と考えられていた天
孫族が日本に来る前に住んでいた先住民と位置付けられ、野蛮で低劣な存在と見られて
いた。その結果、鎮守の森や山の奥深くでひっそりと受け継がれてきた縄文信仰も近代
化を目指す明治期の天皇を中心とする神道の再編成によって国家的な死を迎えること
になる
。これは縄文との断絶を意味した。 神道を国家的存在と位置づけるべく神社
分離令(廃仏毀釈)(1868年、明治元年)
に始まり、神社合祀令(1906年、明
治39年)
に至る過程で仏教施設はもとより全国で約7万社の神社とその神々、そして鎮
守の森が姿を消した。神々の一元化による淘汰としての神社合祀令に対して、抗議の声
をあげたのが熊野の森を愛した野人・南方熊楠であったことはよく知られている。南方
が命をかけて守ろうとしたのは、自然だけではなく、熊野の地と自らのDNAに刻まれ
た縄文そのものであった。
(http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k7/170620.htm より)
○縄文時代の日本列島は生産が立ち遅れ、社会の発展も長い間に停滞していたが、
西紀前三、四百年にいたって、 強い外力の刺激のもとに、情況は一変した。採集経済
から農耕経済へと進み、生産力の向上によって列島の社会もだんだん進展し、開化の
域に入ったのが弥生時代であった。もちろん縄文晩期、日本列島のある地区では、時
に農耕の痕跡が遺跡から見つけられる。しかし、この農耕、即ち縄文農耕の存在地域
は極めて制限されているだけでなく、その耕作方式も簡単で、すこぶる原始的なもの
であったから、社会全体の生産方式を変更する力となるには至らなかった。縄文時代
は数千年に及んだが、その内在的素因は社会の発展を促進する段階にはいまだならな
かったわけである。それゆえ、西暦紀元前三、四百年ころ、日本列島が突然農耕を主
とする弥生時代に入ったのは、主として外からの影響である。当時、この力強い外力
は、列島の主な地区あるいは先進地区の生産方式を採集経済から農耕経済に変えた。
変化はさらに東へ東へと拡大し、最後は日本列島の全体が停滞の縄文時代から文明の
域に入った。
(http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn016.html より)


                           2022.5.14      土

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