藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

「日本人」座談会で柳田国男が語る

   

「日本人」座談会で柳田国男が語る 柳田国男(昭和53)pp.254-283
   奈良朝下半期に日本が新たに得たものは非常に多いが失ったものもたくさんある。それが非常に残念な気がする(p.256)。
 日本という国土が何を日本人に与えたかという問題を誰かにやってもらいたい(p.258)。 
    世界のシャーマニズムというものをはっきり比較研究した上、その共通特徴を明らかにして、日本の古代の宗教がそのスタンダードに合するかどうかということに当たってみる必要があると思う(p.261)。
   『万葉集』と古今集の間、つまり六国史が書かれたころの、日本語の痩せ方を考えなくてはならない。つまり、漢文学が入って、日本の従来の言語は、女性だけしかあやつらなくなってきている(p.265)。
   「社会」ということばは起こりは中国ですが、向うでは「社」とか「会」とかいうことばがいろいろ使われていますが、要するに人の集まりでしかも必ず何か信仰的な中心がありますね。その中心が祖霊信仰ではないというのが日本とは非常に違うように思われます。日本の場合は、祖先信仰的な場合が非常に強いのが特徴ではないですか(p.279)。
   東方を非常に大事にするという心持がある。蓬莱とか扶桑とか日本とかいう名はこの思想がなれけば出てこないよ(p.281)。


        ノート
「日本という国土が何を日本人に与えたかという問題を誰かにやってもらいたい」と言うのは一種の環境決定論で、和辻哲郎の『風土』は、その考えで書かれたものであろうが、和辻の『風土』には、マルクス主義への対抗という意識があった。日清戦争時期に出版され、ベストセラーになった志賀重昂の『日本風景論』は、ナショナリズムの本で、「漢土に桜無きにあらず。日本の桜なし」というような、日本風土絶対主義を露骨に主張するものであった。現在では、環境と人間主体の相互作用で考えるというのが、常識的な考えである。 
 「日本の場合は、祖先信仰的な場合が非常に強いのが特徴ではないですか」というのは、柳田の基本的な考えのようである。儒教の先祖崇拝をどう考えているのだろうか。もっとも、急速に近代化した日本社会では、無縁仏の方が大きな問題となっている。
                                 2022.5.13  金

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