藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

キルケゴール『死に至る病』を読んだころ 関連して思うこと

   

              キルケゴール


  キルケゴール『死に至る病』を読んだころ  関連して思うこと
    今から50年前、京都の御所の近くの家から京阪三条まで行って、京阪特急に乗る。当時の京阪特急には、テレビが各車両に一つついていて、印象に残っている。48分ほどで大阪の天満に着く。地下鉄で谷町九丁目へ。歩いて15分ほどで、上六、上本町六丁目の老朽化した学舎に着く。
 京阪特急の中でキルケゴール『死に至る病』を一か月ほどかけて読んだのを今も覚えている。外国語が専門だったが、専門のアジアの言葉よりも西洋の哲学に興味があったので、読んだように思う。
 キルケゴールは北欧レマン湖の静謐をバックに身体的な死は何ら苦ではない、神によって救われるということを知らないことこそが度し難い死に至る病なのだと切々と訴えていた。
 キリスト教は西洋の土台にあるとひしひしと
思った。
 キリスト教は日本近代に見え隠れして顔をあらわす。内村鑑三、徳富蘇峰、バンド、北村透谷、有島武郎。中でも内村鑑三の無教会主義は信仰と宗教の本質的な問題に対峙している。内村はアメリカのキリスト教の経済的援助で成り立っている、アメリカ宣教師に牛耳られている日本のキリスト教を苦々しく思い、(経済的)独立キリスト教を提唱し、武士道と同じ精神を持つという点でキリスト教を信仰した。
 宗教は組織を信じきるところに存在するが、信仰はあくまでも内心の自由に属し、個人と関係がある。元統一教会問題も組織の教えを絶対的なものとして信じ切って、言われるがままに巨額の献金をしたことに問題がある。個人の信仰と言う立場を尊重していたら、宗教の言うことを鵜吞みにはしなかったであろう。しかし、それでは宗教組織の中での居場所がなくなるところに信者の弱みがある。差別と偏見、迫害。本当の宗教はそれらによって強くなる。
 宗教はできるだけ、教義や路線について、客観的根拠を説明する努力を続けるべきである。最後の行き場が宗教と言うのはわかる。業病を医者は直せない。宗教の出番だ。しかし、公共の福祉に反すれば、罰を受けるのは当然だ。では罰を与えるその権力は誰が持つか。安易に信教の自由を制限できない。自民党は宗教を集票マシーンと考えていたのだろう。岸信介元首相の家の隣が元統一教会の本部だったというのはブラックジョークである。
 元統一教会を目の敵にしてマスコミは報道するが、韓国の悔日意識を利用した宗教であることをもっと報道すべきだろう。日本人は道徳、倫理のない輩で今でも過去の侵略を反省していないのだから、金をむしり取って破滅させてやればいいというわけである。まんざら当たっていなくもないと客観的には思う。

 在日韓国、朝鮮人で結婚問題で悩んで、入信して問題を解決した人もいるだろう。一面的に、悪だと決めつけた、硬直した報道をするな。ゲスマスコミ! 新聞が売れれば、視聴率が上がればいいんだろう! 所詮は。偉そうな上から目線の報道姿勢こそが問題だと思う。


                                2022.10.23 日曜日

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