藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

直訳と意訳

 


  直訳と意訳
 井波律子氏は数年前に『水滸伝』全訳などの仕事を終えて、亡くなった。氏は吉川幸次郎氏の授業を受けていて、「原文にある言葉をすべて訳せ。それ以外は何も付け加えるな。」と教えられたそうである。結果、直訳を重んじていて、『水滸伝』第一回の訳の中で、「わが身を見ると、ワンタンほどの鳥肌が立っていた。」という直訳の結果の奇妙な訳を残している。原文は“看身上时,寒栗子比馉饳儿大小,口里骂那道士:”だから、“馉饳”を直訳して「ワンタン」としたことは原文と対照すればわかることだが、原文を知らないで日本語だけ見ると、奇異な感じがする。こうした訳はめったにないが、やはり誤訳に近いであろう。直訳すればいいものではない。翻訳とはそんなに簡単なことがらではない。 
 逆に、意訳に徹したら、外国のものを読んでいる気がしないで、自分の言葉に引き寄せているので、新情報は得られないであろう。外国のことを勉強しても、すべて自分の言葉に引き寄せて考える者は、ろくな成果、新情報を得られないだろう。テキスト・クリティークなどというのも欧米流のニセ毛唐が猿真似で裁断することが多いのだから「ゆがんだ虎の威を借りる」意訳の極なのかもしれない。日本の学問は半分以上、猿真似であろう。その猿真似が構造化して、権威となり、基準となり、基準に合ったものしか受け付けなくなると、「象牙の塔」の完成だ。恥ずかしくないのか。
 現在は実証的に分析的に研究して「博士号」を取らないと大学では教えられない。これはアメリカの真似で、日本の大学がアメリカ化しているのは事実である。それに金儲けの巣窟になっている。これもアメリカ化だ。すでに「真理の探究」という言葉も聞かれなくなって久しい。文科省の予算が削られるのだから、仕方がないと言いながら、自らの天下り先を広げようとする文科省のゲス落ちこぼれ官僚の陰湿さよ。あんたら、死ぬときは地獄行きだよ。
 直訳は異質化 foreignization   、意訳は 同化  domestication 。前者は読者を原作者に引き寄せる。後者は原作者を読者に近づける。ヴェヌティ  Venuti    の言葉である。柳父章氏が「日本における翻訳―歴史的前提」という文章で引用している。言葉の研究は文化にも援用できる。構造主義はそのことを実証している。


                       2023.2.20       月曜日

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