藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

『孟子』について

       

   『孟子』について
 内村鑑三は『孟子』の「義」を重んじる精神を愛した。「利」を嫌い、「義」を重んじた内村は、キリスト教に武士道精神と同じものを見出し、洗礼を受けたが、キリスト教はいいが、アメリカのキリスト教はだめだと言っている。拝金主義に与したキリスト教を批判した。
 自ら顧みて直くんば千万人と言えども我ゆかん。(大意) 孟子


  暗君は君主にあらず、残賊なり。したがって代えてよろしい。湯武放伐論である。
 中国から日本に来るとき、孟子の書物を積んだ船は沈んだという。革命思想は日本人に合わなかったということを象徴的に表しているエピソードである。


  
                           2023.4.25  火曜日                    



   参考知識
  孟子の革命論
 中国で初めて「革命」の思想を明らかにしたのは、戦国時代の諸子百家の一人、孟子だった。戦国の七雄の一つに挙げられていた斉は、もとの斉王の家臣団の一つであった田氏がその王位を奪ったものでふつう田斉といわれている。国家の主権の基盤に問題を抱えていた斉の宣王が孟子に会ったときに、まっさきに聞いたのが「殷の湯王は夏王桀を放逐して殷王朝を建て、周の武王は殷の紂王を征伐して周王朝を確立した。臣下がその君主に反抗し、君主を殺して、つまり革命を行ったということは歴史上の事実か?」ということだったのは、そのような事情があったからだった。孟子が「古い書物にそう書いてある」と答えると、宣王はさらに「臣下の身分で主君を殺すことが道義的に許されるのか」と反問した。
(引用)孟子は答えて「仁愛をそこなうものは賊であり、道義をそこなうものが残である。こういう残賊をおかすような悪人は、天子にして天子でなく、一個の人間に過ぎない。だから、殷の湯王や周の武王は、天子にして天子でない残賊、すなわち一個の人間に過ぎない夏王桀や殷の紂王に反抗してそれを殺したのである。殺した相手は一個の人間にすぎなかった」という。
 これが有名な中国における革命論である。すなわち、中国を統治する君主は、人民の人望をえている聖人である人が、天から命じられ、天の代理である天子として人民を治めるのである。だから、暴虐な君主たちは人民の人望を失い、人民に反抗され、そしてけっきょくそのくらいを追われる。ここでいう天は、仮想的・抽象的なものであるが、その天がいままでその王朝に命じて天下を治めさせていたのが、その命令を改めて、人民の人望を失った暴虐な君主を放逐し、その代わりに、新しく人望をえている者に命じて天下を統治させる。人民の世論に応じて天が命を革(あらた)める――この革命論を初めて打ち出したのが孟子である。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』2000(初刊1974) 講談社学術文庫 p.485>
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-023.html












                          2023.4.25  火曜日

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