藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

文化的には、原発処理水という名の汚染水


      問題は科学的な違いではない


 文化的には、原発処理水という名の汚染水
 原発処理水は科学的に100%安全。
 国はそう言う。
 ホリエモンもそう言う。
 山本太郎はそうではないと言う。
 ホリエモンのように国に心を売った人間の言うことは
 信用できないと山本太郎は言う。
 チェルノブイリ原発はコンクリートで固められたが、
 まだ新たな問題が出てきている。
 チェルノブイリ原発近くの農漁産物を食べたいと思うだろうか。
 問題は科学的に安全かどうかではない。
 文化的に「汚」かどうかだ。
 事故った原発は文化的に「汚」だというのが
 世界の常識だ。
 事故ってない世界の原発のことを批判しても説得力がない。
 いまだに、福島原発は「汚」の中心だ。
 したがって、それに近いほど「汚」が強くなる。
 それから遠のくほど「汚」は弱くなる。
 そうした意識が日本人の中にはある。
 中心である「天皇」の近くにいくほど「聖」に近く、
 「天皇」から遠い熊襲 くまそ やアイヌは「汚」である。
  そういうかつての考えと軌を一にする。
  東京一極集中もそういう考えに基づく。
  科学的にではなく、文化的に考えないと問題は解決しない。
 「汚」の中にも「聖」があるというような考えが生まれてこないと
 問題は解決しない。
  上の図では「浄化」と書いているが怪しいものだと文化的に思われているから
 「処理水」はやはり「汚染水」と同じだ。
  アメリカの支持を得たからと言って日本だけの常識では世界に通用しない。
      岸田首相は確かに処理水放水という「英断」をした。
 それは金銭的圧迫を回避するための苦肉の策であった。
 文化的な解決策を考えてもらいたい。
 何度でも言う。


                                2023.9.8  金曜日

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