藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

1992年  日中関係  外務省公開外交文書から 1  2024.1.3

    1992年  日中関係  外務省公開外交文書から  1
 2023年12月20日、外務省が公開した外交文書で、1992年10月の天皇訪中に向けて、当時の宮澤喜一首相が橋本恕(ひろし)駐中国大使に対して「対中工作をぜひやってほしい」とひそかに命じていたことが分かった。
 天皇訪中は中国側が何度も招請し、1992年10月、日中国交正常化20周年の佳節に実現した。ところが、1992年の2月、中国は尖閣を中国領と明記した「領海法」を公布した。日本で訪中反対論が盛り上がり、判断に揺れる宮沢首相は4月、一時帰国した橋本氏に「党内や国民の間に亀裂が生ずるような形で実施したくない」と不安を明らかにし、橋本氏から「国民感情を刺激するような問題を中国側に休眠させる」と提案を受け、首相は対中工作を命じた。北京に戻った橋本氏は、後の首相、温家宝氏ら有力者を訪ね、尖閣などの懸案について極力発言しないよう要請し、温氏は努力すると述べ、中国側は対立をあおる言動を控えるようになった。
 宮沢氏が自民重鎮に根回ししていないことが、中曽根康弘元首相が「宮沢から直接、自分に何の話もない」と橋本氏に不安を伝えたことから露呈し、首相に代わり、外務官僚が党内の理解に奔走した。             京都新聞 2023.12.20  水曜日 夕刊


     ノート
  日本側は1992年2月の中国の「領海法」尖閣領有明記について、なんらの抗議も行わなかったし、日本ゲスマスコミも何等のリアクションをしなかった。これは有名な話である。日本外交の音痴ぶりがうかがえる。江沢民に忖度したのだろう。中国がこの時期に尖閣領有を明記した「領海法」を公布したのも解せない。そんなことをしたら、日本側の態度が硬化して天皇訪中がなくなり、江沢民は政治生命を絶たれることになるのではないのか。すでに決まっていたことだから回避できなかったのか。
 上の記事からも宮沢元首相の党内への根回しのなさや外務省へのあなた任せの態度が露呈している。
 1992年の天皇訪中は極めて政治的なイベントである。国際社会に復帰したい中国とそれに忖度した日本という構図が見えてくる。道義的な「日中友好」などすでに失われていたのではないか。当時、日本には「貧しい中国人留学生」が大学院にたくさんいた。今、大学教授になっている中国人も少なくはない。彼らは今、どういう思いで当時の天皇訪中を回顧しているのだろうか。


                             2024.1.3   水曜日

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