藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

1992年  日中関係  外務省公開外交文書から 2                  2024.1.5

    

      1992年10月   天皇訪中

 1992年  日中関係  外務省公開外交文書から 2 
 1992年2月の中国「領海法」尖閣自国領土明記公布は日本の天皇訪中反対派を刺激し、宮澤喜一首相は天皇訪中について態度が「ぐらぐら」していた。橋本恕駐中国大使は温家宝氏らに日本の天皇訪中推進派が「苦しい立場にある」ことを説明した。さらに、日本への批判をすべて控えるように要求した。中国側も天皇訪中に江沢民党総書記ら推進派の政治生命がかかっていることから、日本批判をすべて控えた。
 6月になっても宮沢首相は最終決定を下せておらず、橋本氏に「自民党内にも説明してもらいたい」と言った。橋本氏が中曽根康弘元首相に会い、中国の状況説明をすると、中曽根氏は天皇訪中実現に竹下登元首相、金丸信副総裁と「党内をまとめるべく努力する」と腹を決めた。
 小和田恒外務省事務次官や谷野作太郎アジア局長も自民や財界、メディアの幹部に精力的に根回しをした。政府の6月の世論調査では、訪中賛成は72%に上った。宮沢首相は8月25日、天皇訪中を最終決定した。
 中国は当時、民主化運動を弾圧した89年の天安門事件で各国から制裁を受けていた。銭其琛外相は回顧録で天皇訪中に関して「西側諸国による中国とのハイレベル往来禁止令を打ち破っただけでなく、中日関係に一層奥深い意義を有した」と記した。
 20日公開の外交文書からは、上皇の訪中が父昭和天皇の遺志を継いだ旅だったことが改めてうかがえる。
             2023年12月21日 水曜日  京都新聞  夕刊
  
   ノート
  この記事には、宮沢元首相の無能ぶりと橋本恕駐中国大使の有能ぶりが鮮明に対照的に描写されている。
 1992年2月の中国の領海法公布が尖閣の大きな節目だったのだが、日本は中国に何らの抗議もしていない。マスコミも沈黙のままである。江沢民訪日を踏まえての忖度が働いたのだろう。中国も日本批判は控えるという譲歩はしている。
 当時、私は大学院で勉強していたが、天皇訪中には反対だった。何らの日中間の相互理解が進展していなかったからだ。国民にも天皇訪中は盛り上がりに欠け、政府の決めたことが行われているだけというムードだった。
 日本には現在、中国をよく知る政治家はほとんどいない。研究者も実証的研究しかしていない。私は学習者の母語である日本語を重んじる日中対照表現論を二冊、上梓し、『比較文化学』の本も上梓したが、保守的な研究者が注目することは少ないようだ。それでも、私は研究を進め、比較文化を根底に置いたブログを書き続ける。自国の過去の文化と現在の文化の比較も重要だから、過去の歌をアップして、意識的、無意識的な比較をしています。


                              2024.1.5  金曜日

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