藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

罪の共有              2024.1.29

    『進撃の巨人』   エレンとアルミン
    罪の共有
 罪を犯した者を許さない。人を殺した者は殺されることで報いるしかない。そうした復讐思想が根底にあるので、死刑廃止は現状では難しい。
 では、国家に罪を裁く権限があるのかというと、これも腑に落ちない。「官」というのは国家権力の具体的実行機関で、基本には非情な「支配」「権力」の思想がある。「権力」とは「有無を言わせず従わせる力」のことだ。国家にはそれがある。徴兵権、徴税権はその最たるものである。
 人はどのようにして、殺し合いをやめられるのか。大谷由香(龍谷大学特任准教授・東アジア仏教学)氏は『進撃の巨人』の主人公エレンとその幼友達のアルミンのやり取りと『大般涅槃業』の阿闍世王(あじゃせおう)とブッダのやり取りに「罪の共有」の思想を見出し、人が殺し合うのを避ける道を見出そうとしている。(大谷由香 「『進撃の巨人』と『涅槃業』」 2024.1.19 京都新聞 夕刊 現代のことば 参照)
 『進撃の巨人』でアルミンはエレンに「君に壁の外を想像させ、巨人をめぐる人と人の大虐殺を行わせたのは、僕だ。これは僕たちがやったことだ。いっしょに地獄へ行って、罪を受けて苦しもう」と「罪の共有」を訴えかける。父親殺しをして帝位についた阿闍世王が罪の意識にさいなまれ、ブッダに告白した時、ブッダは「父王はブッダを供養し続けて王位に就いた。父王が王になっていなければ、あなたは父王を殺すことはなかったでしょう。あなたに父殺しの罪があるなら、私にも罪がある。どうしてあなただけが罪がありましょう。」と阿闍世王に語り掛ける。これも「罪の共有」の思想であると大西由香氏は言う。(「罪の共有」という言葉は使っていない。私の創作である。)
 「『進撃の巨人』に描かれた攻撃の応酬は、現在のパレスチナ情勢を思い出させる。なるほど、私の大切な人を殺したあの人を、そのように追い詰めたのもまた私だったということに思い至ったとき、人類はやっと殺し合いの塔から降りることができるだろう。」としながらも「ああ、でも、そうせざるを得なかったあの人の悲しみを理解できたとしても、私は。」という言葉で大西由香氏は、このエッセーを終わっている。
 頭で理解できても心で「憎しみ」を超えるのは容易でないということだろう。
 救いはこうしたことを考え続ける中にあるように思う。勉強、研究とはそういうことを明らかにして、解決方法を示すためにある。
 宮沢賢治は言っている。


 すべてがわたくしの中のみんなであるように
 みんなのおのおののなかのすべてですから
   『春と修羅』宮沢賢治


                            2024.1.29   月曜日

×

非ログインユーザーとして返信する