藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

本家  夏目漱石『吾輩は猫である』から考える

   


本家  夏目漱石『吾輩は猫である』
 横山悠太(2014.7)『吾輩ハ猫ニナル』講談社 について昨日、紹介したが、『吾輩ハ猫ニナル』というタイトルは著者の、「猫」のように第三者の視点から日本と中国を自由に見たいという願望の表れであろう。最近は日中ハーフの若者も結構いて、本人は日本と中国の間で悩むようである。しかし、二者択一的でなく、両文化を対等にみられる位置にいると考えたらいい。国家というのはいい加減なもので、たかだかこの400年の1648年のウェストファリア条約以来の産物である。もともと国境はないのだから、「国家」は軍事力で陸・海・空の領域を確定するしかない。そこに死の商人が跋扈するゆえんがある。坂本龍馬はイギリスの武器商人と通じていて、薩長にその武器を売りつけていた。ブラックな坂本龍馬を描かなかったのが司馬遼太郎である。実証主義という仮面の下の情緒的な主観、竜馬賛美を見抜く教養を持ちたい。今、司馬など、まともな教養ある人間は相手にしていない。 
 一番の金もうけは戦争、無理なら局地戦だから、ゲス悪魔拝金主義と死の商人、軍人エリートが結託して戦争を誘発する。私は戦争絶対反対論者である。内村鑑三からそのことを学んだ。もっとも、内村鑑三は複雑である。兵役拒否すべきかと聞いてきた青年に対して、あなたが戦争に行かないと、誰かが戦争に行かないといけないのだから、行きなさいと言っている。兵役拒否を勧めていたら、とっくに内村は獄につながれていただろう。
 閑話休題、横山悠太(2014.7)の本家の 夏目漱石『吾輩は猫である』は漱石の友人、正岡子規の『アララギ』に掲載されたもので、時は日露戦争時期だが、考えはいろいろ。北川扶生子(2020)『漱石文体見本帳』勉誠出版 に『吾輩は猫である』は「天下泰平の駄弁」、その「駄弁」は「ボケとツッコミ」、ボケは苦沙弥先生の専売、その他の人物はすべて苦沙弥へのツッコミ役であるとしている(p.126)。また、『吾輩は猫である』という小説自体が、猫がもったいぶった文章語でしゃべることのおかしみを基盤にしている(p.196)と述べている。文章語、漢語は権威付けにもなるし、茶化す場合にも使われることを言う北川氏は、江戸の戯作、洒落本などの文章語で、人を茶化す、おちょくる伝統を踏まえて発言している。『吾輩は猫である』は落語などをベースにして、うんざりするほど、どうでもいいことが述べられている。それ自体が時代への風刺となっている。どうでもいいことをとめどもなく話し続ける金持ち、特権階級への批判。文章が今でも普通に読めるのが驚きである。「金田鼻子」という鼻に特徴のある、夫が成金の夫人が出てくる。漱石はそうした成金夫人を軽蔑した文章を書いている。漱石観は森田草平の「則天去私」観から江藤淳の「実存的」漱石観に推移したという。漱石観も時代の産物であることを物語っている。


                         2022.1.11  火

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