藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

政治より文化を重んじた内藤湖南   内藤湖南(2013.10)『支那論』

   

                            内藤 湖南


 内藤湖南(2013.10)『支那論』文藝春秋 文春学藝ライブラリー
  本書は内藤湖南著『支那論』(1914 年)と『新支那論』(1924 年)を収めたもので、新字体・新仮名遣いに改める等読みやすくした文庫本である。
「解説」(与那覇潤氏)は「戦後」の、湖南の「転向」への批判の「通例」を次のようにまとめている。「いわく、いまだ辛亥革命の熱気冷めやらぬ1914 年の『支那論』では、共和制へ向かう中国の進歩に期待を寄せたのに対し、その夢のしぼんだ 24 年の『新支那論』では逆に中国停滞論を唱えて、日本による侵略を肯定したのだと。」(p.330)。与那覇氏はこの「転向」の思想家、湖南への批判の「通例」を「中国におけるまなざしのスタンスが国内での政治的な議論の基軸をかたちづくってしまう現象」(同)の一つとして解釈し、そこに理想化された中華=「先王の道」を追い求めた荻生徂徠やからごころの「 理 ことわ」りで国が治まるという教条こそ空疎な幻想だと嘲笑した賀茂真淵らの国学者という対立的な中国論の系譜を見てとっている。
    湖南が「日本による侵略を肯定した」と誤解されるのは、政治より文化を優先し重んじたので、列強による共同管理という政治形態でもその文化が残ればいいという考えをとることもあったからである。湖南の政治観、文化観は次の言辞によく表われている。「大体人類が造り出した仕事のうちで、政治軍事などの仕事は、最も低級なものであるが、日本が今政治軍事において全盛を極めておるのは、国民の年齢としてなお幼稚な時代にあるからである。支那のごとく長い民族生活を送って、長い文化を持った国は、軍事政治等にはだんだん興味を失って、芸術にますます傾くのが当然のことである。支那の過去の歴史を見れば、ある時代からこの間は、他の世界の国民の――インドのごとき古い文明は別として――まだ経過していなかった、これから経過せんとしておるところの状況を暗示するもので、日本とか欧米諸国などのごとき、その民族生活において、支那より自ら進歩しておるなどと考えるのは、大なる間違いの沙汰である。」(『支那論』五、支那の国民性とその経済的変化)(p.310)。ここには「長い文化を持った国」=「支那」=中国への敬意の念が表出されている
     湖南は『支那論』(1914 年(大正 3))で、世界の大勢が「貴族政治→君主独裁政治→共和政治」という普遍的流れに沿って動いていることを述べているが(pp.50-51)、それは中国にも該当する大勢であった。もっとも 1928年(昭和 3)の講演「近代支那の文化生活」では中国では「平民発展の時代が即ち君主専制時代である」宋代を中国近世と見る独自の歴史観を述べている。『支那論』では中国に共和政治を導く具体的契機を、黄宗羲や曽国藩の「平等主義」と地方自治に見出した (pp.153,pp.105-107) 。

 今の中国も歴史的文脈のなかで見る必要がある。欧米日のカテゴリーで見ても、中国は把握できないであろう。


                                                                                                2022.1.13   木

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