藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

坪内逍遥の二作品について     小説とは何ものか②


坪内逍遥の二作品について        小説とは何ものか②
 政治小説の代表作である矢野龍溪の『経国美談』が書かれたのは1885年(明治20)。『経国美談』は大変な売れ行きで、龍溪はその印税で、二年半にわたって欧米旅行ができたほどであった。『経国美談』の流行は、それまで卑しまれていた小説の地位を引き上げたが、それは小説が庶民大衆に対する絶大な啓蒙効果を発揮しうる可能性を持っていることに人々が気付いたからであった。
 1885年には、坪内逍遥の『小説神髄』も世に出ている。『小説神髄』は劈頭の言葉を「小説の主脳は人情なり、世帯風俗これに次ぐ」で始め、「人情」=「情欲」=「心情」を描くことが小説の務めであるとする。『小説神髄』は『南総里見八犬伝』のような勧善懲悪小説を現実離れしているとして否定し、模写小説たるリアリスティック・ノベル=写実主義小説を推奨する。『小説神髄』が早期写実主義の代表的文学論と言われるゆえんである。硯友社は文学の功利性を否定し、したがって政治小説をさげすんだが、江戸趣味を特徴とし、自らは逍遥の写実主義の主張を受け入れたものであると主張した(拙著(2011)参照)。
 逍遥のもう一つの作品である1883~1884年に書かれた『当世書生気質』(とうせいしょせいかたぎ)では、当時、東京で一番多いのは、人力車夫と書生であるから自分はそのことについて書くと宣言している。それが逍遥のアップトゥーデートな人々の「心情」を書く写実小説ということになる書生とは、薩長藩閥政権のもとで、地方から政治家の手づるで東京に出てきて、屋敷で奉仕しながら学校に行き、立身出世を目指した若者のことを指す。対して、人力車夫は、元会津の藩士などの、戊辰戦争で薩長に敗れた人たちが中心であった。前者が明治という新しい時代の「勝ち組」とすると、後者は「負け組」であった。(小森陽一(2018)参照)。
 当時の小説は『経国美談』のような功利的宣伝道具でもあったし、『当世書生気質』のような社会に出現した新しい種類の人々(の心情)を描写したものでもあったのである。

                            2022.1.25    火

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