藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

自然主義をめぐる中日現代文学の比較上の相違

 
 自然主義をめぐる中日現代文学の比較上の相違
 中国の自然主義は日本を経て一九二〇年前後に介紹され《小説月報》には暁風訳の島村抱月「文芸上の自然主義」や李達訳の官島新三郎著『日本文壇の現状』が載せられた。
 中国の文学者の自然主義に対する態度はおおむね否定的である。たとえば周作人は沈雁冰あての手紙で〝专在人间看出兽性来的自然派中国人看了,容易受病。〟(「人の世に獣性だけを見い出す自然派は、中国人が見たら、弊害が大きいだろう。」)(六〇)と言い、沈雁冰も自然主義の思想と描写手法を分け〝我们⑬在所注意的并不是人生观的自然主義,而是文学的自然主義。我们要采取的是自然派技术上的长处。〟(「我々が注目しているのは人生観としての自然主義ではなく、文学上の自然主義である。我々が採ろうとするのは自然派の技術上の長所である。」)(六一)と言う日本の自然主義は既述のように「実際の事実そのままの忠実な再生」と考えられ、科学時代における長谷川天渓流の「幻想」に対する破壊こそがその内容であると考えられた。長谷川天渓は「上に向」うロマン主義の態度と比較し、自然主義の中心思想を「下に向かって之を求めんとする」(六二)ものであると考えているように、それは内へ内へと向かうものであった。換言すれば自然主義には社会と分断した形でみずからの煩悶に焦点を当てて「個の探求」を目論むものがあったそしてそれは「政治的」、「社会的」を標榜する中国文学から見れば許容できないものであった。沈雁冰自身、文学とは〝趋于政治的与社会的。〟(六三)(「政治的、社会的な方向へと向うもの」)であると述べている。ここで日中文学の評価基準の異同、相違について少しく考えてみたい。中国の伝統文学では小説の始めや終りに勧善懲悪の説教があるのが普通である。その根底には性善説であれ、性悪説であれ、人の本性について〝在人性的后天修养中必须避恶趋善。〟(「人間性の後天的修養の中で悪を避け善に向わなければならない」)という考えが存在すると言う。(六四)他方、日本文学ではどうかと言うと、一七世紀の井原西鶴の市井の小説などでは、客観的に人間の醜悪な面を描き、その善悪については道徳的な評価を下さない傾向がある。本居宣長も情感のままに作った詩が道に悖(もと)ることは当然あると言っている。こうした観念は坪内逍遥の『小説神髄』にも引き継がれ、文学とは醜悪なものも描くものであり、それに対する評価は文学者の任ではないとしている。そうした伝統的文学観念が日本の自然主義者に継承されたのであると王向遠は言う。(六五)中国文学の「載道主義」的と日本文学の非「載道主義」的、中国文学の「政治的」、「社会的」と日本文学の「超政治的」、「個人的」といった既述のような特徴がその根底に存在することによって異同が生じていると言えるのではないであろうか。
 以上のようなことが自然主義をめぐって中日現代文学の比較上、概括的に言えると思うが、ここに一つ面白い影響の結果があることを述べておきたい。
 施蜇存(しちつぞん)が「蒲団」を模倣して《娟子》という小説を書いているのである。登場人物や筋も「蒲団」に似ていて、主人公の名前も「蕪村」「娟子」と日本人風である。ただし場所は中国である。蕪村は大学教授兼作家で、娟子は蕪村のいとこに当たるが、母の兄弟にたのまれて娟子を自宅に住まわせ大学に通わせる。やがて娟子にボーイフレンドが出来るが、蕪村はそれに嫉妬し娟子を我が物にしようとするが失敗する。娟子に逃げられた蕪村は〝抱着她的红衫,直扑上她的臥床。他把红衫蒙住了头躺在她的床上。〟(「彼女の赤いシャツを抱きしめ、そのベッドに突伏して、赤いシャツをかぶってベッドに横になった。」)王向遠氏は《娟子》と「蒲団」を比較して次のように言う。〝《娟子》和《棉被》情节人物相貌、表现的也是灵与肉的冲突,爱欲烦恼的主题。但作家的立场中颇有不同,在《棉被》中,田山花袋是站住竹中时雄的立场上,表⑬时雄的灵与肉的纠葛和痛苦的忓悔,而在《娟子》中,施蜇存则站在局外,对芜村更多讽刺和否定。《棉被》写得含瘟,《娟子》写得直露。从这一个方面表明,对日本自然主义所提倡的〝忓悔自我〟、〝赤裸裸的描写〟等,中国作家是不以为意的,或者是不愿苟同,或者是想学也学不来的。〟(六六)(「《娟子》と「蒲団」の筋、人物は似ていて、表現されているのも霊と肉の衝突、愛欲煩悩のテーマである。しかし作家の立場はきわめて異なり、「蒲団」の中で、田山花袋は竹中時雄の立場に立ち、時雄の霊と肉の葛藤と苦痛の懺悔を表現したが、《娟子》では施蜇存は局外にいて、蕪村を諷刺し否定している。「蒲団」は含蓄があるが、《娟子》は露骨である。このことは日本の自然主義の提唱する「自己の懺悔」、「赤裸裸な描写」等に対して、中国の作家は首肯しようとせず、あるいは同じであることを嫌うか、まねようとしてもまねられなかったことを明らかにしている。」)やはり中国文学は「載道主義」的立場、勧善懲悪的立場を離れることができないということであろうか
 中国が崩壊しないのは、真の士大夫は民のことを考え続けるからである。「載道主義」の良い面である。日本が危ういのは、いつまでも「経済大国」だと信じて疑わないからである。「自由」が親殺し、子殺しを誘発するものであることを「自覚」しない日本人の将来は、明るいものではない。「自覚」から始めよう。感性文化の日本人は。自文化と他の文化の相対化が必要な時に我々は生きている。



   〔注〕
 (一) 王向遠(一九九八)
(六〇)同(一)書 六七―六八頁
(六一)同(一)書 六六頁
(六二)長谷川泉他編(一九六八)一二三頁
(六三)同(一)書 六七頁
(六四)同(一)書 六八頁
(六五)同(一)書 六八―六九頁
(六六)王向遠(二〇〇一)一二二―一二三頁

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