藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

北京冬季五輪について


北京冬季五輪について
 昨日、2022年2月4日、日本時間午後9時(現地時間午後8時)から北京冬季オリンピック開幕式が行われた。私が注目したのは、各国選手団の入場行進が、国の漢字の画数の少ない順になっていたことである。したがって、一番、最初は❝土耳其❞である。これは「トルコ」の音訳である。基準を変えれば、順序が変わる。(「元気があれば、何でもできる。皆さん、お元気ですかあー!」猪木さん、お元気ですか。)アメリカ拝金主義の世界格付け金もうけ順も変えてもらいたい。私のいる京都の町中(まちなか)は、以前は医者もいれば、蕎麦屋もいるし、商売人も、坊さんも、一般人もいるというところであったが、最近は、金持ちしか住めなくなってきている。相続税を物納して京都の周辺部に追いやられた先住民は、せめて京都新聞を読むぐらいが京都にいた名残である。うかうかしていられない。私も尻に火がついている。
 閑話休題、北京冬季オリンピック総監督の張芸謀氏はCCTVのインタビューで「有名人や歌手が中心ではなく、一般の人が中心の開幕式にしたい」という趣旨のことを述べていた。事実、開幕式の中心は無名の人々であった。中国にとって、民が中心となる社会は悲願である。『禮記』にある「大同」社会はそうした意味であろう。『荘子』の「万物斉同」も、相対主義の認識だけでなく、現実社会での実現を目指すものと捉えるべきであろう。中国には、階級社会的な分断は確かに歴史的に存在する。マルクス主義が受け入れられたのも、そうした分断が基層にあったからだろう。しかし、同時に中国には共同体志向もある。今も、魯迅の『故郷』だけは、中国の中学校で教えているようである。それは共同体志向の表れだと私は考えている。
  ウイグルの人権問題もある。しかし、それは外野がかまびすしく非難するだけでなくなる話でもない。唐は周辺の安禄山の乱で滅亡したのである。神経質になるのはわかる。もちろん、人権抑圧がいいわけではない。しかし、人権とは何だろうか。欧米が階級社会を作って温存しているのは、厳然たる事実である。アメリカのブラックライブズマターは何らの解決を見ていない。各国選手団の入場行進が、国の漢字の画数の少ない順になっているような価値基準の転換を世界は必要としている。
  ISは正しいとは言えないが、アメリカにその指導者を殺す権利はあるのだろうか。もともとは、イラクに大量破壊兵器があると言って、武力侵攻して、何もなかったこと、イラクに強権的に「民主化」を行おうとして、反発した人々がISを作っていったのである。ベトナム、アフガン、イラク、次はイランか。いい加減にしろよ、アメリカ。武器を売って儲けようとしているのは、少し国際情勢を知っている人間なら知ってるよ。
 北京冬季五輪の推移を見守りたい。国威発揚でなく、努力と修練の結果である個人の輝きが見たいと思う。


                              2022.2.5   土

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