漱石の「則天去私」 すみれほどな 小さき人に 生まれたし
漱石の「則天去私」 すみれほどな 小さき人に 生まれたし
江藤淳は「則天去私」という言葉に近代人の生き地獄からの脱出を夢見ていた漱石を 見出している。「天」というより、「地」の生命力に、孤独とエゴイズムを超える契機 を見出していたように思われるとし、「近代」のかなたに突き抜けた彼が、人間の生命
の 源 泉にある深い洞察を行いつつあったことは疑い得ないものと思われる、という言葉
で江藤淳は「漱石の文学」(昭和54年9月、文芸評論家)を締めくくっている。
昨日、上記のように書いたが、漱石の「則天去私」については、いまだはっきりしない点があり、森田草平は「則天去私」に、己を去って、天に従う理想の生き方を見出し、江藤淳は実存的な生き方を漱石が志向したというようなことを言う。果たしてどうであろうか。森田草平の言うことは儒教的であり、江藤淳の言うことは西洋現代思想的である。現在はアメリカ拝金主義思想が流布している時代だから、両方ともアップトゥーデートではない。
漱石の「則天去私」を理解するには、晩年の未完の小説『明暗』を知らなければならない。現在、読んでいる。188回のうち、90回まで読んだ。中国語訳も併せて、読んでいる。30年ほど前に読もうとしたが、途中で放擲した。面倒くさいのである、文章が。しかし、現在67歳、四月から定年三年目突入の自宅研究者としては、文章がうまいと思うようになった。特に心理描写がうまい。みんな、勝手なことを考えて、弱みを相手に見せないようにしながら、自分の思い通りに相手を御しようとする、夫・津田と妻・お延、その友人・小林等の心理が、近代の我・エゴの姿がリアルに描かれている。今田康子『わたしの漱石』私家版 には、「則天」と「去私」は対立するものではなく、相補的なものであるというようなことが書いてあるので、今日、読み直してみようかと思う。
漱石の「則天去私」は、「天」とは何か、「私」とは何かということから考えなければならないから、これは大ごとである。最後に漱石の俳句を一つ。これを漱石は愛した。小宇宙は大宇宙に通じているとでも言いたいのだろうか。当時でも小柄だった漱石の「漱石」的な句ともとれる。
すみれほどな 小さき人に 生まれたし
今日は漱石の誕生日である。
2022.2.9 水