藤田昌志 比較文化のブログ

和・洋・中を比較文化学的に考察する。トピックは音楽、映画、本の紹介、歴史、文学、評論、研究等 多岐にわたる。

漱石の妻 鏡子悪妻論


漱石の妻 鏡子悪妻論
 1896年(明治29)4月、漱石は第五高等学校に赴任するが、その年の6月8日に熊本で中根鏡子と結婚している。漱石29歳、鏡子19歳であった。鏡子の祖父の囲碁仲間が牛込郵便局で漱石の兄の直矩(なおかた)と同僚だった関係から、縁談が持ち上がった(夏目鏡子(1928)『漱石の思い出』)。鏡子の父は、貴族院書記官中根重一で、結婚式は、重一が鏡子を連れて熊本に行き、漱石の借家の間で行われた。(三田村伸行(2019)『漱石と熊楠 同時代を生きた二人の巨人』鳥影社。)
 漱石は結婚早々、妻に「おれは学者で勉強しなければならないから、お前なんかにかまっていられない。それは承知していてもらいたい。」と高飛車に言う。ある日、俳書を見て漱石が笑い転げているので、鏡子が尋ねると、「両方にひげのあるなり猫の恋」、この俳句が面白いという。鏡子は、猫にひげがあるのは当たり前、ちっともおかしいことなんかない、と言い、漱石は愛想をつかしてしまう(鏡子(1928)『漱石の思い出』)。また、明治42年4月6日の漱石の日記に次のようにある。「細君に俊寛を謡って聞かす。謡ってから有難うと云えと請求したら、あなたこそ有難うと仰い(おっしゃい)と云った。」
 芸術・文学のわからない妻であった。しかし、そうでもないと思うという考えもある(三田村伸行(2019))。鏡子は太っ腹で気前がよく、善良でそれなりの優しさを持ち合わせていて、門下生に金を貸したり、門下生の相談に乗ってやったりしていたようだ(同)。
 夏目鏡子(1928)『漱石の思い出』に、神経衰弱の時の漱石の異常な様子があからさまに描かれていて、漱石偶像破壊のような形になり、有識者や門下生から「漱石をキチガイ扱いして、自分だけいい子になろうとするのはけしからん」と、批判が起こったらしい。鏡子悪妻論はそれが世間に流布し、定着したもののようだ(半藤末利子『漱石の長襦袢』『漱石の思い出』解説 三田村伸行(2019)pp.237-241)。
    漱石が急死した時、主治医の誤診でないことを証明するため、鏡子は漱石の死体解剖を率先して献言している。気丈な人だったのではないだろうか。『明暗』で女性の心理を書く際の、参考にもなったのが妻鏡子であったと推測される。
                                 
             2022.2.11金

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